詩を書くように批評を書く
宮本武蔵は「みる」という営みについて、観見ふたつの目があるという。
「見の目」とは、普通に物を見る目である。それに対し、「観の目」とは、心のはたらきにより、状況を大きく見る目である。
これを引いて小林秀雄は、批評眼というのは「見の目」であり、ジロジロ見る目だともいう。それに対して歴史観というのは本来「観の目」であるはずが、「観」という言葉の語感に注意が払われない。「語感などという古臭いものは詩人にまかせて置け」という風潮を感じる小林秀雄は、「語感」そのものへの意識が薄れていることを憂う。
唐突に詩や詩人のことが出てきたわけではない。小林秀雄を「近代批評の神様」と呼ぶならば、その批評の原点に詩があったことは言うまでもない。
ただ、先の戦争をはさんで小林秀雄は、自分の批評の在り方に疑問を抱き、新しい試みをしていたのも事実である。1948(昭和23)年の講演『私の人生観』に先立つ、あの舌禍となった1946(昭和21)年の座談会「コメディ・リテレール」において、小林秀雄はその試行錯誤の一端を示している。
すでに小林秀雄は、「詩的言語」を持って批評する試行錯誤をしている。1942(昭和17)年に発表した、あの「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」で知られる『当麻』であり、本稿でも触れた『西行』『平家物語』などを収録して同年に刊行された「無常という事」における日本の古典に対する批評に表れている。
小林秀雄は「詩的言語」について、どのように考えているか。そして、どのように批評として表現されているか。言葉の「形」「姿」とは何か。これらをまとめれば、『小林秀雄の言語観』という本が一冊書けてしまうだろう。
盟友である中原中也のこともあり、小林秀雄にとっては生涯、詩人というのは身近な存在であり、また答えが簡単に分かるものではない謎だった。それでも、自分の目指すところでもあったのだろう。