人の知覚はあてにならない
「こういう考え方を、私はベルグソンに負うのですが…」(『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p177)で始まる3つの形式段落は、とても長いうえ、難解である。本書紙面において、一つめの段落は37行あり、ほぼ2ページ分だ。その間に改行がなく、文字でびっしり埋まっている。二つめは23行、三つめは12行である。
『私の人生観』のような講演録は、小林秀雄の常として、みずから加筆し、納得したものしか作品として世に出さなかった。録音音声は残っていて、速記録もあったものの、作品とならなかった講演もある。加筆するとなれば、『信ずることと知ること』のように、タイトルを変えたうえ、講演では語らなかった柳田國男の別の話を丸まる加えるなどして、倍ほどの内容に膨らんだりする。
おそらく、『私の人生観』のこのベルクソンの部分も、後から加筆したのではないだろうか。文章として読んだところで難解で、一読しただけではすんなり頭に入ってくるものではない。豊富な注釈が売りの「小林秀雄全作品」であっても、この3つの段落に注釈はほとんどない。ましてや講演では視覚の助けがなく、「語り口」をともなったものとしても、もともと話し言葉は論理に「揺れ」がともない、主語と述語、目的語と述語がつながらず、正確に受け止めるのに必死になるか、分かったつもりになるということが多い。
何よりも、この3つの段落は、ベルクソンが1934年に発表した『思想と動くもの』という著作におさめられている一節をほぼなぞっているからだ。今回参照した原章二訳『思考と動き』(平凡社ライブラリー)では、「変化の知覚」という章である。
これで紙面では6行。このような調子で、さらに66行続く。
まさに高校現代文の読解である。ここは、「従って」の前後を逆にとらえたい。何かを感じ、気づく「知覚」をするとき、人は言葉を使って自分のなかに受け止める、理解する。「概念で置き代える」。だが、どんなに正確に理解しようとしても、また抽象的な概念として受け止めたくても、人間の知覚、または感性というのは曖昧で、なかなか信用ならない。そこで、合理的に理解するためには二つの方法がある。哲学と科学である。
小林秀雄は、具体的な事柄を、哲学を用いて抽象的な概念として受け止めたり、科学すなわち計量で受け止めたりしたところ、人間の知覚、感性というのは、実にでたらめで、信じるに足るものではなかったと言いたかったのだろう。
(つづく)