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「共犯」に、なりたい。——トレイシー・シュヴァリエ『真珠の耳飾りの少女』【書評】

拝啓

十年に一度という寒気が通りすぎようとしています。乾いた東京の空にも雪が舞いました。そんな日の午後は、きまって思い出す情景があります。

雪が舞う窓辺。張り詰めた空気。かすかな息遣い。陰のある眼差しの奥にひそむ戸惑い。ファインダー越しではなく、まっすぐ彼女を見つめたいと思った冬の日の午後。意識したのは、フェルメールの光。

もう十五年も前のことです。その想いに結びついていて、なかなか触れられなかったのが、トレイシー・シュヴァリエ『真珠の耳飾りの少女』。その冬からずっと、本棚にひっそりと佇んでいたのです。今回、映画DVDを十五年ぶりに観た後で、本書を初めて読んでみました。

舞台は17世紀のオランダ、古都デルフト。事故で視力を失った父親の代わりに、16歳のフリートが働きに出ることに。住み込みの女中として仕えることになったのが、すでに地元でも名の知られた芸術家フェルメール。彼女がどのようにして、あの名画「真珠の耳飾りの少女」として描かれることになったのか。

画家におけるモデルといえば、男に芸術的なひらめきや情熱を与えるミューズとして語られることが多いです。ピカソにおけるドラ・マール。モディリアーニにおけるジャンヌ。しかし本作では、才能のある芸術家フェルメールと、密かな審美眼をもつフリートは、主人と使用人という間柄を超えて、お互いに尊敬し合っている。わかり合えるのです。

制作途上の絵に不足しているものにフリートが気づき、言葉に出さずに示し出す。それをフェルメールも感じ、採り入れる。描き上がった絵は、むろん共同制作ではありません。しかし二人はいわば「共犯」です。誰も知らない、二人だけの世界。そこに、ほのかに愛が生まれるのは、いわずもがなです。

もちろん嫉妬も生まれます。フェルメールの妻カタリーナは当然のこと、二人の次女であるコルネーリアは幼いながも陰湿な嫌がらせを繰り返す。パトロンであるファン・ライフェンは、絵だけでなく、フリートも手に入れようと下心をむき出しにする。周りの欲が「動」だからこそ、フリートとフェルメールの愛が「静」でありながら、輝いてくる。あの絵に最後に描き込まれる真珠のように。

「真珠の耳飾りの少女」の絵が完成したあとの展開は、小説と映画では異なります。人生の味わいという意味では、小説がいい。しかし、フェルメールの絵に感じる静謐さと重ね合わせると、映画の結末が胸に響く。この物語は、小説を先に読んでも、映画を先に観ても、十分に切ない。

物語としてはフィクションです。でも、フェルメールやその家族、当時の状況などは史実に基づいて書かれていて、そうやってあの名画は描かれたのだと信じたほうが、読書の楽しみも、絵を観る楽しみも、もっと深まります。まさに「言絶えてかくおもしろき」物語です。

冬の日に思い出すあの情景。写真はあと六点あります。タイトルは“Femme près de la fenêtre”。あの眼差しは、真実だったのか。近ごろ、写真を再び撮りたいなと思うことが増えてきました。窓辺で佇む人は、いませんか。

寒い日はまだまだ続きます。冬の日に似合うとあなたが思う本を教えてくれたら、うれしいです。

既視の海

追伸
あなたが教えてくれた本をさっそく取り寄せました。届いたら、また手紙でお知らせします。ありがとう。

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既視の海
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