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月を見て心がざわめくのは何故か?
「観」から思い浮かぶ考え方として、しばらく仏教思想について語ってきた小林秀雄だが、ここで初めて比較対象としてのキリスト教に触れる。
仏教の心観というものの性質には、キリスト教の祈りに比べると余程審美的なものがあった様に思われます。やはり、美しい自然の中に生れた宗教と、沙漠に生れた宗教との相違からくるのでありましょう。
仏教とキリスト教における「観」すなわち、宗教的なものの見方については、その起こりにおける環境の違いもあるのではないかと考え、「仏教者の観法という根本的な体験が、審美的性質を持っていたからでありましょう」と指摘する。
ただし、仏教の発祥はインドである。日本ではない。ここで小林秀雄がいう「観法」はもちろん「空」のことだ。何事にもとらわれず、ありのままを観たときに、我が国の場合は雪月花に代表される自然の美が目に映る。
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其貫道する物は一なり、と芭蕉は言っているが、彼の言う風雅とは、空観だと考えてもよろしいでしょう。
そして小林秀雄は西行の歌を引く。
春風の花を散らすと見る夢はさめても胸の騒ぐなりけり
この歌にふれて心がざわつくならば、西行の空観はいまを生きる我々の心にも生きている。空即是色、つまり何事にもとらわれない、ありのままの眼で見て初めて現実そのものと共感共鳴できるのだ、それが「真如を得る道」なのだと小林秀雄はいう。、
ここで思い出すのは、1962(昭和37)年に朝日新聞のPR版で発表した『お月見』という作品である。
知人から聞いた話として、ある人が京都の嵯峨で宴をした。いつもと変わらぬ酒盛りだったはずが、たまたま十五夜だったので、月が上ると、誰の目も月に吸い寄せられ、月のことしか話さない。たまたまスイスからの客も同席していたのだが、月が上ってから一変した場の雰囲気をいぶかしく感じ、今夜の月には何か異変があるのかと日本人に尋ねた顔つきが面白かったという。
お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。
西行の歌にふれたり、十五夜の月を見上げたりしたときに、我々の胸がざわめくのは何故か?
小林秀雄は『私の人生観』で、仏教によって養われた、自然や人生に対する観照的態度、審美的態度が、我々の心に深く浸透しているからだと指摘し、「まるで遠い過去から通信を受けた様に感じます」と言葉を継ぐ。我々は伝統から離れて生きることは決して出来ない、伝統のないところに文化は存在しないという。
こうして仏教思想の話から、少しずつ文化論に移っていく。
(つづく)
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