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「美しい」と「きれい」は異なる

「美」は解るものではない。「美」は求めるものだ。観念でも通念でもなく、眼の前にあるものを求めてこそ「美」なのだ。

美しい自然を眺めてまるで絵の様だと言う、美しい絵を見てまるで本当の様だと言う。これは、私達の極く普通な簡単の言葉であるが、私達は、われ知らず大変大事な事を言っている様だ。要するに、美は夢ではないと言っているのであります。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p177

古今東西、「美」とは何かという問いに対して数多の考え方が提示されている。だが、小林秀雄にとっての「美」を考えるとき、どうしても思い出してしまうのは、「今日の芸術は、うまくあってはならない。 きれいであってはならない。 ここちよくあってはならない」と語った芸術家の岡本太郎である。

「美しい」ということと「きれい」というのはまったく違うものであることだけをお話しておきたい。美しいというのは、無条件で、絶対的なものである。ひたすら生命がひらき高揚したときに、美しいという感動が起こるのだ。<中略>美の絶対感に対して、「きれい」はあくまで相対的な価値しか持っていない。つまり型にはまり、時代の基準に合っていなければならない。<略>「型」は時代によって変わるのだ。<略>芸術の場合、「きれい」と「美」とは厳格に区別しなければならない。

岡本太郎『自分の中に毒を持て』

美というのは普遍的であり、絶対的である。小林秀雄が「頭を働かすより、眼を働かすことが大事だ」(『美を求める心』)というように、まず無条件に見つめ、感じることを岡本太郎も大切にしている。

フランスの象徴派詩人から多大な影響を受けて批評を書き始めた小林秀雄に対して、9歳下の岡本太郎は、芸術を志してフランス・パリに留学し、さらなる必要性を感じて哲学や民俗学を学んだ。批評を文学作品の域まで高めた小林秀雄が後年、批評される立場にもなったのと同じく、岡本太郎は芸術家として作品を批評される立場にあった一方で、縄文土器や沖縄の文化にたいして批評を書いたという構図も同じである。この二人の芸術観がちかしいのはどこか分かる気がする。

フランスから帰国した岡本太郎が、小林秀雄が鎌倉の自宅に招かれ、蒐集した骨董を見せられたというエピソードがある。岡本太郎は骨董に興味がなく、まったくの無知だったが、出された物のなかから、これはと思って指し示すと、最も価値のある品が次から次へと当るものだから、小林秀雄は驚いていたという。「ごそごそ戸棚をさぐっている小林秀雄のやせた後姿」(岡本太郎『日本の伝統』)がもの悲しかったという述懐もまた、もの悲しい。

(つづく)

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既視の海
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