みずから考え、工夫し、つくり出す思想を持て
小林秀雄を私淑する哲学者の池田晶子によれば、哲学は「在る」ものではなく、哲学を「する」ものであり、「考えること」そのものだという。そして、哲学「する」ことで得られた考えの総体が「思想」である。よって、みずから「哲学」せずに他人の思想を「とってつける」ことも可能である。
小林秀雄は、自らの経験という具体性なしに物事を抽象化し、観念を述べているに過ぎないのがジャーナリズムだと指摘する。
1929(昭和4)年、小林秀雄は『様々なる意匠』における「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか」という言葉を携えて論壇に登場した。そして次々に登場する文学作品を時流に合わせて批評する「文芸時評」で名を馳せた。しかし、論壇、そして文芸時評とは、まさにジャーナリズムである。
そして戦争をはさみ、小林秀雄が自らを形作ってきたはずの文芸時評から距離をおいたのは、「己れの夢を懐疑的に語ること」なく、観念的で薄っぺらい「とってつけた」ような思想を声高に語るジャーナリズムへの不信感と無力感であったとは考えられないだろうか。文化とは一種の建築だ、精神の刻印を打った現実の形を作り出す勤労であり、手仕事だという小林秀雄の考え方と、ジャーナリズムのあり方はまったく相容れない。
だからこそ、小林秀雄は『私の人生観』を、次のような期待の言葉で締めくくる。
こうして、「小林秀雄全作品」第17集においては全61ページにわたる『私の人生観』は幕を閉じる。
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