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万物流転と諸行無常

小林秀雄の文章を批判する物言いの一つに、論理の飛躍がある。AだからB、BだからCとたどっていくところを、小林秀雄はAだからCだと断じてしまう飛躍もあれば、観念から現実、現実から観念の切り替わりが急だったり、『モオツァルト』や『当麻』でおなじみの「突然」が起こったりすることもある。

AだからCだと断じるところでは、読者みずからBを補わなくてはならないこともある。「突然」起こることは詩情豊かなので、本当なのかと疑うこともある。それでも、小林秀雄の文章を読む魅力の一つは、そんな飛躍、すなわち発想の連鎖があると思う。そんな発想の連鎖がこれでもかと溢れているのが、『私の人生観』だ。

諸行無常の思想が釈迦を見舞ったと同じ頃、ヘラクレイトスは万物流転という事を考えていた。

『私の人生観』

これまでずっと仏教思想について語ってきた小林秀雄が突然、古代ギリシアの自然哲学に触れる。

すべての存在や現象は、一瞬たりとも静止していることはなく、絶えず生成と消滅を繰り返すというヘラクレイトスの「万物流転」という考え方は、この世のものはすべて、絶え間なく変化し続けているという「諸行無常」や、あらゆる存在や現象には不滅で不変の実体はないという「諸法無我」といった仏教の思想と類似しているという指摘は多い。

さらに小林秀雄は、仏教において、すべての存在や現象には実体がなく刻々と変化し続けるので、すべての実体や存在は「空」だという考えは、ヘラクレイトスのいう、すべてのものを焼き尽くす万物の根源である「火」のようなものだと指摘する。

ヘラクレイトスが岸辺に遊ぶ子供に火を見た様に、釈迦は沙羅の花を空に見たでしょう。

『私の人生観』

このような詩情も、小林秀雄を批判する者にとっては鼻につくようだが、これも小林秀雄の魅力の一つだと考えられないだろうか。

二人とも、何ものにも囚われず、徹底的に見、徹底的に考える事により、当時の宗教や道徳や哲学から遥かに遠くへ行ってしまったと想像される…

『私の人生観』

小林秀雄は「インテリ」というものを嫌った。単なる物知りであり、哲学においても、術語を羅列し、ひたすら観念を説く者たちをひたすら嫌い抜いた。「無私」という言葉をよく用いているように、己を滅して、よく観る、そして考えることを好み、貫いた。

小林こそが近代日本を代表する「哲学者」だというのは、むしろ当然すぎるほど自然な表現であるように思えてきた。

高橋昌一郎『改訂版 小林秀雄の哲学』

小林秀雄を私淑する哲学者の池田晶子は、哲学を学ぶ、哲学を知る、という言い方を嫌った。哲学は「在る」ものではなく、哲学を「する」ものだ、哲学「する」すなわち「考えること」そのものだと断言した。哲学という言葉と、思想という言葉を区別もせず、何も考えもせず軽く使っているのを憂いていた。「哲学的な考えが必要だ」といった表現を聞いたら、彼女は笑ってしまうだろう。

(つづく)

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既視の海
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