大切なのは、知識ではなく、自分で考えること
このような書き出しで、明恵上人から次の恵心僧都に話題が移る。注釈で、恵心僧都というのは、平安中期の天台宗の僧、源信の通称とある。哲学や思想について読書するとき、座右の虎の巻にしている『もういちど読む山川倫理』(小川聡・編、山川出版社)によれば、「源信は、『厭離穢土、欣求浄土』(汚れたこの世を厭い、死後に極楽浄土に往生すること)を説き、極楽に往生するための方法として、心の中に仏の姿を想い描く観想念仏を重んじ、その教えを『往生要集』にまとめた」とある。
やはり『往生要集』を読まなければならないかと考え、手元に岩波文庫(上下巻)を用意した。だが、どうしても頭に入ってこない。自分に引き寄せられない。
それは当然だ。哲学書や思想書は、決して自分のために書かれていない。そこで阿満利麿(著)『「往生要集」入門──人間の悲惨と絶望を超える道』(筑摩選書)を読み始める。これは分かりやすい。なぜ源信は『往生要集』を書いたのか、「厭離穢土」とはどういう意味なのか、一つひとつ注釈をつけ、それから噛み砕いて解説してくれる。
ちょっと嬉しくなったところで、ふと『私の人生観』に戻ると、小林秀雄も「往生要集」に苦戦していたようだ。
ただここで、ありえないくらい丁寧に『私の人生観』を読み解くはずが、自分のやっていることはちょっと違うのではないかと考えた。
『私の人生観』を読み、そこに連なる発想や知識に一つひとつ驚き、思考の奥行き、世界の広がりを感じたい。しかし、『私の人生観』から学びたいのは、小林秀雄がどのように観たのか、どのように考えたのか、すなわち、どのように直観したのか、である。
観無量寿経の解釈を知り、中将姫説話を知り、鑑真の生涯を知り、明恵上人の奇抜さを知ることで、小林秀雄の博識さに少しでも近づいて満足したいわけではない。
すると、毎日のように聴いている講演CDの、小林秀雄の少し甲高い声が「突然」脳裏を駆け巡った。
講義録である『信ずることと知ること』を読めば穏やかだが、講演音声だと「僕もインテリというものを嫌い抜いていますよ」と品よく吐き捨てている。
たしかに大学で教えていた経歴はあるものの、小林秀雄は徒手空拳で文芸批評の道に入り、ベルクソン哲学を独習し、骨董や絵画を自分の目で学び、辞書を片手に本居宣長を読んだ。自らを文士と呼んでいたが、インテリになることは御免被るといったところだ。
小林秀雄を読む楽しみは、知識を得ることではない。小林秀雄を自分の中に感じ、小林秀雄を思い出し、小林秀雄とともに考えることだ。
では、小林秀雄は『往生要集』から、どのように考えたのだろうか。
(つづく)