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いちむらみさこ『ホームレスでいること——見えるものと見えないもののあいだ』

朝。ロータリーの反対側にあるバス乗り場に押し寄せる高校生の波に逆らいながら駅舎に向かう。階段の下には小さなベンチ。傘の刺さったバッグを枕に、日焼けした顔に帽子をのせたおじさんが仰向けになり、片方の膝だけ立てて眠っている。気温はすでに30℃を超しているが、ここなら風は通り抜ける。別の列車が着いたのか、さらなる制服姿の波が階段からあふれ、ベンチの前を通りすぎる。スマホとおしゃべりに夢中な彼らに、おじさんの存在は刺さらない。

額に汗をにじませながら飛び乗った車内で、いちむらみさこ『ホームレスでいること——見えるものと見えないもののあいだ』を開く。2003年から都心のテント村で暮らし、アートや文筆などの表現活動をしている女性だ。ここで、ふと困ってしまう。いつもなら著者の説明として職業や立場を示す。しかし、本書をひととおり読んだいまでも、どのように紹介すればよいか、戸惑っている。

著者はみずから「ホームレス」だと認めている。でも「ホームレス」は生業ではない。持ち家や賃貸といった固定された住居にいないという状態を示しているに過ぎない。自分が知らないだけで、定職をもつ「ホームレス」の人がいても不思議ではない。それ以前になぜ、職業や肩書きをもって、その人や、自分などの属性を語るのだろうか。

彼女は、仕事から、決まった住まいから、社会的に課された精神性からみずからを解き放つために、「ホームレス」になったという。文筆や講演、「ホームレス」の人々を支えるという、しっかりとした社会的な活動をしている。それで十分じゃないか。「いちむらさん」という存在で生きている。それ以上でも、それ以下でもない。

そして本書は、ホームレスだけど、こんなに頑張って生きているのだ!といった感動ポルノやエモいナラティブでもない。仮名ではあるが、出会ったり、ともに生活したりしている「ホームレス」の一人ひとりの生き方が紹介される。「ホームレスは…」とひと括りにせず、生活史のように語ってくれる。その一人ひとりの表情が見えてくるようで、親しみすらわいてくる。

なかでも、3章で紹介される「星野さん」に会いにいきたくなる。大きなスクランブル交差点。その脇の植え込みに「星野さん」はいる。交差点は、渡ったり、通り過ぎたりするものだ。たとえ信号に足を止められても、ずっと留まるところではない。でも、「星野さん」はたたずんでいる。そして人々の流れをじっと見ている。朝、眠そうな表情で職場に向かう人々が、夕方、疲れた表情で職場から戻るのを見ているかもしれない。お兄さんやお姉さんに連れられて小学校に通う女の子が、数年後に、今度は弟や妹のような下級生を連れて小学校に通うのも見るかもしれない。「星野さん」が見ているのは、人のなまなましい「生き方」だ。

本書は、たしかに問題提起もしている。「ホームレス」を排除するために、街の公園がつぶされ、華やかな商業施設になったりしていること。彼らが占有したり横たわることができないように、区切りがあったり、円筒形をしたりするベンチが増えていること。さらには、テントや段ボールといった「ハウス」に襲撃があること。なぜ、そんなことをするのだろうと考えさせる内容もある。だが、著者は声高にうったえることはしない。「ホームレス」という暮らし方、生き方をしている人がいる。それを素朴なことばで示している。知ってくれ、という切実なアピールをするより、むしろ、そこに「いる」のだと感じられる。

人と人がいて社会ができる。人と人のあわいにあるものは何か。「あわい」はもともと両者が働き合うという「合わふ」の名詞形。「あわい」というのは、位置ではなく、関係性。人の生き方、人の心における「あわい」にあるものを、ユング心理学の第一人者、河合隼雄は「たましい」と呼んだ。

「ホームレス」である人々そのものが、自らの存在を肯定できるように、「ホームレス」でない人々も、ただ彼らの存在を肯定する。いや、お互いに肯定しあえばいい。そこに生命の源泉があり、「たましい」がある。

昼下がり。高校生の下校時間にはまだ早い。出先から戻ってきて、誰もいない駅の階段をゆっくり降りる。その下にはベンチ。顔に帽子をのせたおじさんが眠っている。片方だけ立ているその膝が、朝とは逆になっていた。

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