「思い出す」のは過去ではなく、現在——有吉佐和子『悪女について』、宮本輝『幻の光』
拝啓
ついに入梅かという湿っぽい気持ちを隠せない一方、静かな雨音をききながら読書するのを心待ちにしています。雨や雪は、わが身が濡れたり凍えたりしないとき、眺めているのはいいものです。それを風情というのでしょうか。
手紙は不得手だといいながら、小気味よく言葉を重ねるあなたのお便りをうれしく拝読しました。手紙を含めて、文章を読むのは、書いた人の心持ちを「考える」、想像することです。それを小林秀雄は「思い出す」と呼びました。
さて、あなたの思い入れのある岡崎京子『ROCK』をついに読みました。漫画家として敬意を払う手塚治虫からのロック、アトム、ウランなどのネーミング。バブル時代を象徴するクラブシーンや「デルモ」という逆さ読みは、さすがに隔世の感があります。体調を崩してまで痩せることへのルッキズムは。岡崎マンガによる皮肉のはずが、当時も今も変らないことに、遣る瀬無さをおぼえます。それにしてもアトム、軽薄なヤツだ。フンっ。
そして、やはり岡崎京子『チワワちゃん』を復習してから、あなたの教えてくれた有吉佐和子『悪女について』を読みました。評判は耳にしていましたが、ようやく手に取るタイミングを得ました。
少女のような果敢無い美しさで、テレビにも出演し時の人だった実業家・富小路公子が謎の死を遂げる。その後、実の母親や息子たち、複数の愛人、仕事仲間など27人による証言から、悪女であり聖女でもある公子の「真実」が浮かび上がるという小説でした。
「主人公」はたしかに公子なのですが、自らは語り手とならず、27人の証言のなかで公子が語り、行動する。岡崎京子『チワワちゃん』も同じく、仲間たちの証言から、それぞれ異なった生前の「チワワちゃん」の姿が描かれる。一人の人物や一つの事件を、複数の証言者がそれぞれ異なった述懐をするという物語構造は、芥川龍之介『薮の中』や、三浦しおん『私が語りはじめた彼は』にもありますね。
『悪女について』は、老若男女が入り混じる27人の語り口を書き分ける作家・有吉佐和子の職人技に圧倒されました。1人の証言が、次の人の証言に結びついていたり、または大きくひっくりかえしたり。行きつ戻りつ読みながら、きちんと整合性がとれている。唸るしかありません。
公子の奔放ぶりは、悪事を楽しんでいるのかもしれない。その融通無碍な行動は、実業家というより、天性の女優ともいえます。しかし、公子は虚構を生きているのではなく、虚構を真実にしてしまっている。たしかに公子の息子2人について、自分が父親だと信じている男が複数登場します。真相は分からない。しかし、彼らにとっては我が子だという「真実」がある。彼女を聖女だと信じ込んで疑わない人、悪女ぶりに辟易している人、それぞれが公子を「思い出す」、そして語っています。27人の語り手のなかで、公子は生きているのです。
あなたは先日の手紙で、向田邦子、岡崎京子、有吉佐和子の3人について、不慮の出来事で創作する人生が断たれた切なさを話してくださいました。たしかに、作家がひとつの作品をかき上げて、さあ次だ、と密かな意欲を胸に抱いているときは、その後に訪れる悲劇を知り得ない。
しかし、彼女らが創作を断たれることを、読み手は知っています。だからこそ、断たれる前の、生命がみなぎっている言葉を、声を、ありありと「思い出す」ように読みたい。「書いた、書かれた(描いた、描かれた)」といえば過去形ですが、「書いている、書かれている(描いている、描かれている)」というのは現在形。われわれが作品を眼の前にして、作家が、何を語り得たのか、語り得なかったことは何か、それを考える、「思い出す」のは現在のいとなみです。まさに諸行無常。形あるものは、いつかは滅びる。だから、いまこの瞬間を大切にする。
そんなことを考えていたら、宮本輝『幻の光』を思い出しました。兵庫の尼崎で暮らしていた子ども時分、祖母が目の前から立ち去り、そのまま失踪し不可解な気持ちを抱えていた主人公ゆみ子。さらに幼なじみだった夫は、生後まもない息子を残し、動機もわからず自死。奥能登の漁村で板前の後妻に入ってからも、現実と幻のあわいで、あなたは何故死んだのかと問い続けます。
ゆみ子は、死んだ前夫をありありと思い浮かべることができます。しかし、いくら問いかけても、悲しい目をするばかりで、自死した理由は語ってくれません。それでも話しかける。自分の遣る瀬無い気持ちや、奥能登の厳しい自然と暮らしぶりも交えながら。現実には、前夫は亡くなっています。しかし、ゆみ子がいま「思い出す」、そして語りかける限り、前夫はいまを生きています。だから『幻の光』は、ゆみ子のひとり語り、現在形で書かれているのです。
せっかちで、ミステリを読むのが苦手だというあなたも、『幻の光』は文庫版で80ページ足らず。是枝裕和監督によって映画化もされていて、それもよくできている。小説から読んでも、映画から観ても、どちらも同じ味わいがあります。いずれも、私にとって宝石のように大切な作品です。
梅雨といえば紫陽花、紫陽花といえば鎌倉。いいですね。7月に、葉山で好きな画家の個展があるので、それには足を運ぼうと思っています。まだ入ってもいないのに、もう梅雨明けのことを考えています。
敬具
既視の海