見出し画像

ふたたび『当麻』と結びつく

熟読玩味に通じる小林秀雄でさえ読むのに難儀した源信(恵心僧都)の『往生要集』だが、そこに記された数々の地獄や極楽の様子から思い浮かべたのはもちろん、源信が描いたとされる「阿弥陀二十五菩薩来迎図」である。

この「阿弥陀二十五菩薩来迎図」については、本稿でもすでに触れている。というのも、「阿弥陀二十五菩薩来迎図」と「山越し阿弥陀像」は結びついている。

「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(高野山有志八幡講十八箇院)

「観」という言葉から思い浮かべた「観無量寿経」において、極楽浄土に往生する方法として十六観がある。その第一観法である「日想観」は、山の向こうに沈む夕陽を拝むことから始めるが、その夕陽と阿弥陀如来を重ねた仏画が「山越し阿弥陀像」である。

小林秀雄は、かつて感激した『当麻』という能の曲目と「山越し阿弥陀像」を土台に、「観」という言葉の語感から日想観を思い浮かべたのではないかと考察した。その際にも言及した林秀雄の『偶像崇拝』という作品でも、やはり源信(恵心僧都)や『往生要集』、そして「阿弥陀二十五菩薩来迎図」に触れている。しかも源信は、当麻の生まれである。

『私の人生観』は1948(昭和23)年の講演がもとになっているが、それを主催した東大阪新聞社が発行する「夕刊新大阪」に1950(昭和25)年、『高野山にて』という随筆を寄せている。すでに鑑賞したことのある仏画だったが、この年に高野山を訪れたときに対峙した「阿弥陀二十五菩薩来迎図」は、やはり強烈な印象を残したことが記してあり、その思索が同じ年に発表した『偶像崇拝』につながっている。

小林秀雄は『私の人生観』において、「阿弥陀二十五菩薩来迎図」を次のように語っている。

阿弥陀様が,管絃歌舞の聖衆を引連れて、光り輝く雲に乗り、欣求浄土を念ずる臨終の人間の為に来迎する。これは所謂来迎芸術というもののうちで最も優れたものであるが、絵の構想は、微細にわっって「往生要集」の中に記されている。即ち恵心の心にまざまざと映じたがままの図に相違ないのであります。

『私の人生観』

恵心つまり源信は『往生要集』において、往生のために役立つ経典とその具体的な方法を説く。『十往生阿弥陀仏国経』もその一つで、この経を信ずる者を二十五菩薩が護持するという教説を、念仏の利益として示している。よって臨終の際に、阿弥陀如来とともに二十五の菩薩が迎えに来る様子を「阿弥陀二十五菩薩来迎図」に描いたのだ。

小林秀雄は『偶像崇拝』において、宗教美術を観るには、単なる審美眼だけではなく、礼拝的態度も必要ではないかと語っている。また、美は経験だとも言っている。『往生要集』を読み、「阿弥陀二十五菩薩来迎図」を観ることで、小林秀雄は心の中に源信を迎え入れ、その「信仰」をも思い出しているのだろう。

(つづく)

まずはご遠慮なくコメントをお寄せください。「手紙」も、手書きでなくても大丈夫。あなたの声を聞かせてください。