カネトの眼差しを「思い出す」——飯田線阿房列車(3)
(承前)
新幹線ひかり635号は定刻どおり9時53分に豊橋駅に滑り込む。新幹線ホームというのは高架にあって、改札や乗り換えには階段を下っていく印象が強かったが、豊橋駅は階段を上っていく。何だか地に足がついていない感じになる。
ここから飯田線阿房列車を走らせることになる。いそいそと駅弁と飲み物を買い込み、木製のベンチでボケーッと人間観察を楽しんだのち、10時42分発岡谷行の先頭車両に乗り込む。といっても2両しかない。
阿房列車が発つ2番ホームで待っているとき、コンビニ袋や段ボール箱、取っ手のついたジョッキを手にした中年男女の3人組が大声でしゃべっている。さらに仲間がいるらしいが、初対面なのか、少し離れたところの似たような3人組に手を振り、名前を確認し合っている。
車内で総勢10人に増殖した彼らは豊橋を出発すると、4人掛けのボックスシートを3つ占め、さっそく酒盛りを始めた。中年男が多いが、中年女も何人かいて、若造もみえる。結論からいえば、彼らは終着駅の岡谷まで約7時間、車内でずーっと飲みっぱなし、騒ぎっぱなし。窓枠に缶ビールからウイスキーのボトルまでずらりとならべ、アイスボックスからかち割り氷を取り出して水割りやハイボールをつくり、焼き鳥やら煮物などのお総菜を突っつき、ジョッキ片手にアタリメをくわえて歩き回る。どうやら「呑み鉄」というらしい。
彼らがパック入り生卵を持っていたら、奪い取って一人ずつ脳天でかち割ってやろうと思ったが、見あたらないので、ぐっと堪える。冷えた酒を浴びるように飲んでいるが、ほんとうに浴びているのは、他の乗客の冷ややかな視線である。私も村上春樹ふうに、やれやれと肩をすくめてみる。
話が脱線した。ついに飯田線阿房列車が出発する。しばらくは住宅街をぬうように走る。駅間はとても短く、3分や4分走るとすぐに次の駅に着く。40分ほど走った大海駅あたりから周りが険しくなりはじめ、いくつか隧道をくぐるようになった正午すぎに三河川合駅に着く。
愛知側にあるこの三河川合駅と長野側の天竜峡駅の間がかつての「三信鉄道」であり、アイヌの測量士である川村カネトが命をかけて測量した区間である。駅そのものは何の変哲もないが、わが飯田線阿房列車の運転士はここで、運転席の背後にあるスクリーンを降ろす。それまで客席からも列車が進む前方の線路が見えて、さながらジェットコースターのような気分で行く手を楽しんでいたのだが、いまやまったく見えなくなった。思わず口をとがらせる。
三河川合駅を発つとすぐに、腑に落ちる。まさに峡谷に入っていったと実感できるほど、木々は鬱蒼と茂り、崖にへばりつくように走り、次々と隧道を抜けていく。真っ昼間なのに、薄暗い。すると客席側にともる室内灯が運転席前方のガラスに映り込み、見えづらい。そこで背後のスクリーンを降ろして遮光したのだ。一人で感心して大きくうなずいてみる。三河川合駅で乗ってきた小学生くらいの男の子に、奇妙な目で見られる。こっちは気にせず右や左へとうねる阿房列車に夢中である。
東栄駅を過ぎると静岡県に入る。細くきれいな渓流に見とれているうちに、突然川幅が広くなる。これが天竜川かなと思ったらすぐに中部天竜駅に滑り込む。薄曇りの淡い青空と、木々の深い緑と樹皮の褐色ばかりだった車窓に突然、真っ赤なアーチ橋が飛び込んでくる。駅前と天竜川の対岸をむすび、生活には欠かせない橋なのだろう。原色は決して嫌いではないし、なにか意味があるのだろうが、ちょっと生々しい。
そして豊橋駅から約2時間、阿房列車を走らせてくれた運転士がお役御免となる。レトロな黒縁眼鏡をかけ、ちょっと肉付きのいい運転士は頼もしく、勝手に親近感を抱いていた。しかし次の運転士は細おもてで表情が乏しく、ひょろっとした体躯は、ぽきっと音を立てて折れてしまいそう。なんだか頼りなく感じて、それ以降は運転士の交替にあまり関心を抱かなくなる。
中部天竜駅の手前で、ようやく出会えた天竜川。アイヌの測量士、川村カネトを悩ませた激流だと考えると感慨深いのではと思いきや、戦後に完成した佐久間ダムのおかげで、駅から見える川の流れに荒ぶるところはない。
2分間の停車で、見るからに野球部という男子3人と、ブラスバンドと英語で書かれたTシャツを着た女子2人が乗ってくる。午前中の部活を終えて帰宅しようとする高校生なのだろう。5人が5人とも別々の座席にすわり、校名の入ったバッグを脇に置き、おもむろにスマホを取り出す。5人とも水窪駅で下車するまでの約20分間、無言でずーっとスマホに見入っている。互いにおしゃべりもしなければ、画面から眼をはずして溜め息をつくことすらしない。「呑み鉄」連中の騒ぎに目もくれることもない。
ただ、彼らが乗ってきた中部天竜駅のおとなり佐久間駅は、ロッジ風の駅舎に「佐久間図書館」と書いてある。駅に図書館が併設されているなんて、なんと文化的なことよ。それなのに、彼らはスマホしか見ていない。過疎が進み、廃校の議論がやまない高校に通おうとも、彼らの世界は都市部の高校生と何も変わらない。たくさん読み、たくさん書くことが、世界を変えていくはずなのに。
信州と遠州を結ぶ塩の道がとおり、カネトたち測量班が食糧を買い出しにきた宿場町の風情も残る水窪を過ぎて、小和田駅に着く。古びた木造で、ずいぶん味のある駅舎は映画のセットのよう。続く中井侍駅は、駅というより、人が乗り降りできるホームを絶壁に取り付けただけとしか思えない。木々が生い茂っていて見えないが、崖下には天竜川があるはず。どの道路ともつながっておらず、電車か徒歩でしか行くことのできない秘境駅というのは、こういうところなのだろう。用事も目的もなく、ただ揺られるだけの阿房列車だから、廃村や廃虚を求めて歩くこともせず、車窓をとおして眺めるだけで十分に楽しい。
平岡を過ぎたころから、崖下に見えた天竜川の水面がだんだんと線路に近づいてくる。しかし温田や田本となると、また天竜川よりも高いところを走っている。その天竜川も水量が多く流れが見えるところもあれば、湖面のように、水が動かず淀んでいるところもある。川の移り変わる表情が見えるのは楽しいが、カネトが育った北海道の原野や、旭川を流れる石狩川とは、また違っているはず。
この「飯田線阿房列車」を走らせるにあたり、カネトの足跡を追うことは目的ではない。なんにも用事がないのが阿房列車である。しかし、カネトが命がけで測量し、鉄道建設にも携わったからこそ、いまこうして阿房列車を走らせることができる。追いたいのは、カネトの足跡ではない。カネトの視線である。カネトはどんな眼差しで天竜川や天竜峡をとらえ、生い茂る雑木を書き分け、断崖を伝い、地域の人々の暮らしを大きく変えるはずの鉄道建設にむけて測量していったのか。
1889(明治22)年生まれの内田百閒、1893(明治26)年生まれの川村カネト、1902(明治35)年生まれの小林秀雄。彼らが生まれ、活躍した時代から、およそ1世紀がたつ。「昭和」ですら古い価値観だと嘲笑される今日日だが、彼らが生きた時代の智慧を、現代に生きる我々は超えているだろうか。彼らを超える叡知を手にしているだろうか。100年どころではない、500年、1000年。それこそ孔子の論語を超えた智慧を、それだけの歳月でつかんだのだろうか。
千代。駅舎もなく、ひょろっとしたホームに待合小屋がぽつんとあるだけの秘境駅を横目に、いまという瞬間の永遠を思う。
愛知県の豊橋駅を発って3時間半。わが飯田線阿房列車は14時13分、長野県飯田市の天竜峡駅にゆっくりと滑り込む。
(つづく)