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非一般的読解試論 第十一回「ダイヤモンドダストは美しい」
こんにちは、デレラです。
非一般的読解試論は、感想文とは何か、ということを考えるために始めました。
もはや、好き勝手に書くエッセイになりつつあります。
まあ、良いっすよね?
何か見たり聞いたり読んだりして、感じたことを、ゆるーりとこれからも書いていきます。
今回は、わたしの大好きなSF作家のひとり、神林長平さんの『戦闘妖精・雪風』シリーズを読みなおしましたので、その感想文を足がかりに、色々考えてみたいと思います。
何を考えるのか。それは、心身の関係です。心と身体の関係。
『戦闘妖精・雪風』シリーズは、シリーズ三作、現在四作目をSFマガジンにて連載中!単行本刊行が待ち遠しい!!
第一作『戦闘妖精・雪風』が1984年刊行。
第二作目『グッドラック 戦闘妖精・雪風』が1999年。
そして第三作『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』が2009年に刊行しております。
作品を重ねるごとに、思考が深められていくSF作品。
SFはSFでも、サイエンス・フィクションというより、スペキュレイティヴ・フィクションと呼ぶにふさわしい。とても難解、重厚な作品です。
この作品の世界観、深められる思考内容が、「心と身体の関係」について描いたものであると、わたしは感じます。
以下、ざっくりとネタバレしていくので、ご容赦ください。
1.心と身体、パイロットとロボット
さて、なぜ『戦闘妖精・雪風』シリーズ(以下『雪風』シリーズ)に、「心と身体の関係」を読み込んでしまうのか。
この作品は、大雑把に言うと、「ロボットもの」の作品だからです。
「ロボットもの」の作品、つまり「パイロット」がいて、「ロボット」がいる。
パイロットがロボットを操縦する、それが「ロボットもの」の作品の広義な定義と言えるでしょう。
パイロットがロボットを操縦する。この関係を次のように言い換えましょう。
パイロット=心 そして ロボット=身体
つまり、パイロットがロボットを操縦する、ということは、「心」が「身体」を操縦することの比喩、メタファーとして読むことができると考えます。
『雪風』シリーズは、突如地球に襲来した未知の敵ジャムに対抗するため、主人公の深井大尉が、戦闘機「雪風」に乗って戦う、異種間の戦いの物語です。
なお、雪風は戦闘機からロボットに変形するわけではありません。雪風はずっと戦闘機のままです。
さて、先ほどの図式に当てはめると、人間の深井大尉が「心」、戦闘機の雪風が「身体」のメタファーであると読み込むことができるわけです。
そして、『雪風』シリーズの面白いところは、この「深井大尉=心」と「雪風=身体」の関係性です。
「ロボットもの」の物語は、ざっくりと言えば、最初は上手くロボットを扱うことができないけれど、途中でパイロットである主人公が、試練を乗り越えることで、ロボットを上手く扱えるようになる、そういう物語でしょう。
つまり、試練を乗り越えて、心が鍛えられることで、心が身体を支配するのです。
一方で、『雪風』シリーズは違います。
シリーズを通して、「パイロット=心=深井大尉」が、「ロボット=身体=雪風」を支配することはありません。
むしろ、第一作目のラストでは、雪風は、深井大尉を、見捨てさえするのです。
『雪風』シリーズは、パイロット=深井大尉と、ロボット=雪風の関係は、対等、あるいは、片方が片方を見捨てる可能性さえある物語なのです。
引用しましょう。第一作は、深井大尉が、雪風に見捨てられるシーンで終わります。
そして、第二作では、見捨てられた深井大尉が、到着した救出部隊に助け出され、基地に帰った後で、上官であるブッカー少佐に、次のように言われます。
「いや、ある種、畏怖の念を抱いている。おまえ(深井大尉)は初めて、雪風は自分とは独立して存在する他者なのだ、と気づいたんだ。そういう意味では、初めておまえと雪風は対等な関係になった、ということだ」ーp.164『グッドラック 戦闘妖精・雪風』(括弧内引用者)
これをどう考えたらよいでしょうか。
わたしは、これを「心身二元論」と考えることができると思います。
「パイロット=心」が、「ロボット=身体」を支配する物語は、「心身一元論」。
一方で、「パイロット=深井大尉=心」と、「ロボット=雪風=身体」が、支配関係にならない物語は、「心身二元論」。
パイロットとロボットが支配関係にならない。
このような二元論的な「ロボットもの」の物語は、他にもあるかもしれません。
でも『雪風』シリーズは、さらに一歩踏み込んで「心」と「身体」が全く違うものであることを深堀していきます。
『雪風』シリーズでは、「心」と「身体」の関係性を「個人主義」という考え方によって下支えしています。
個人主義とはどういうことか。
簡単に言うと、人はそれぞれ、違う生き物なのだから、同じではない、ということ。
これを、「ロボットもの」に当てはめてみましょう。
個人とは「心+身体=個人」ではない、「心=個人」であり「身体=個人」なのだ、ということです。
心と身体は、それぞれ別々のアーキテクチャを持ち、別々に世界を認識している。
したがって、心と身体は別々の個人である、ということ。
アーキテクチャが違う、ということは、物事を受け取る構造が違うということです。
分かりにくいですね、例を出しましょう。
2.ダイヤモンドダストは美しい
あなたは、真冬のダイヤモンドダスト現象をご存じでしょうか。
ダイヤモンドダストとは、極寒の朝に、大気中の水蒸気が凍ってしまい、微細な氷となり、太陽光に反射してキラキラと輝く現象です。
大気の水蒸気までもが凍ってしまう、極寒の冬の朝は、とても空気が澄んでいて、静謐さが感じられます。
その中で、微細な氷が太陽光で輝く様を見て、あなたはどのように感じるでしょうか。
「わたし=心」は、これを、とても美しいと感じます。
世界がキラキラに覆われて、白い雪の照り返しもあって、とても眩しい。
幻想的な風景です。
一方で、身体はこの現象をどう認識しているでしょうか?
極寒により、大気中の水蒸気が凍りつくす、ということは、空気が極限まで乾燥することを意味します。
鼻腔が乾燥に反応し、鼻水を垂らし出します。
そして、呼吸により、冷たい吸気が肺を満たし、血液の温度が低下、体温が下がり、身体は少しでも発熱しようと勝手に震えだします。
顎の力を抜けば、下顎が震え、歯がガチガチと音を立てる程です。
このように身体は生命維持活動を開始します。
つまり、物理的な身体は、美しさを感じない。
身体は、外界の情報をキャッチし、生命維持のために、あらゆる手段を使い始めます。
「心のわたし」は、ダイヤモンドダストに「美しさ」を感じているとき、「身体のわたし」は、「生命維持の危機」を感じている。
「心=わたし」は、ダイヤモンドダストから「キラキラとした美しさ」を受け取り、「身体=わたし」は、美しさではなく「外界の気温や湿度、体内の血液の温度」を受け取る。
「心」と「身体」は、別の物事を受け取っている。
これが、アーキテクチャが異なる、ということです。
いや、ちょっと待って、とあなたは言うかもしれません。
身体だって、キラキラの光を「目」で捉えているし、心だって、寒さの震えと捉えているじゃないか、と。
たしかに、その通りです。
しかし、身体が捉えるダイヤモンドダストの光は「可視光線」に過ぎません。光の波長であり、結局は「数値的なデータ」なのです。
一方、心はどうでしょうか。たしかに、寒さを捉えることはできますが、ダイヤモンドダストの美しさに心が満たされているとき、寒さは捨象されているのではないでしょうか。
つまり、ダイヤモンドダストを見たとき、心は、寒さを「忘れて」、美しさに満たされている。
さて、「心」と「身体」はアーキテクチャが異なります。
「美しさ」と「様々な数値情報」、こう考えてみると、「心」と「身体」は、世界の捉え方自体が違う、と言えそうです。
「わたし」と「あなた」が違う考え方、違う世界認識、違う生活をしているように。
「わたし」と「あなた」が別々の個人であるように、「心」と「身体」もまた、別々の個人なのだ、ということ。
このように、『雪風』シリーズでは、「心=パイロット=深井大尉」と「身体=ロボット=雪風」の関係性は、「心」と「身体」がそれぞれ違う個人である、と描かれています。
3.複合生命体
「心」と「身体」が別々であることは、分かった、でも、「心」も「身体」もどっちも「わたし」ではないだろうか。
やや、速足ですが二項対立的に考えてみましょう。
「心のわたし=文学的なわたし」、「身体のわたし=物理的なわたし」という対立です。
二つに分けたところで、どっちも「わたし」じゃないか。わたしが分裂しているということなのか。
あなたも、このような疑問を感じるかもしれません。
「心」と「身体」が同時に二つ存在することをどのように捉えたらよいか。
ここで、興味深いことに、『雪風』シリーズでは、「複合生命体」という考え方が登場します。
少し引用してみましょう。
「雪風は間違いなく、世界を認識する能力があるんだ」ーp.468『グッドラック 戦闘妖精・雪風』
「サイボーグとは違う。機械に人間の脳を組み込んだのではないし、コンピュータに操られる人体でもない。二つの、異なる世界認識用の情報処理システムを持っていて、互いにそれをサブシステムとして使うことができる、新種の複合生命体」ーp.470同上
雪風は戦闘機ですが、ただの戦闘機ではありません。
高度なAIを積んでいて、外界の情報を集める、戦略偵察機です。
先ほどのダイヤモンドダストの例のように、雪風は、様々な外界の情報をキャッチします。
パイロットの深井大尉には理解できない「様々なデータ」を収集しています。
目の前に飛んでいる戦闘機を、パイロットが「味方機」だと判断したとしても、雪風は「様々なデータ」を使って、それが「敵=ジャム」だと判断する。
「人間=心」が捨象してしまう、細かな「データ」を「雪風=身体」は見逃さない。
それぞれが、それぞれの世界認識用の情報処理システムを持って、敵=ジャムと戦う。
「心=パイロット」が「身体=ロボット」を上手く扱うの一元論ではなく、お互いがサブシステムとして使い合う二元論的な物語です。
つまり最初の疑問に戻れば、「心」と「身体」は別々に同時に二つあって、それぞれが稼働しているということ。
片方が支配するのではなくて、並存しているということです。
それが「複合生命体」という言葉に凝縮されていると思います。
4.終わりに
『雪風』シリーズは、とても重厚で、難解であるため、上手くまとめられません。
いろんな面白いモチーフが出てきます。
たとえば、個別に存在する「心」と「身体」は、「言葉」を媒介にコミュニケーションできる、だとか。
「心」が、「身体」の認識する世界に行ったら、どういう風に感じるのか、だとか。
「身体の認識する世界」には、時間が無い、だとか。つまり、時間性とは「心」の世界認識のためのツールということ。
めっちゃ面白いのですが、まとめられないので、上記のように箇条書きだけで逃げます。
いつか、書けたら書こう。
今回書いて、さらに深めたい思ったのは、「心」が感じる「美しさ」と、「身体」が感じる「様々な情報」の関係についてです。
ダイヤモンドダストの「可視光線」を、「心」は美しいと感じ、「身体」は明暗の数値情報として感じる。
「数値情報」を記号と、「美しさ」を象徴として言い換えられる気がします。
記号と象徴。粗いですが、身体は記号を認識し、心は象徴を認識する、と言えそう。
これは、次回考えてみようと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
では、また次回。