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デレラの読書録:朱喜哲『NHK100分de名著2024年2月(ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』)』

『NHK100分de名著2024年2月(ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』)』
朱喜哲,2024年,NHK出版

米哲学者リチャード・ローティの著作『偶然性・アイロニー・連帯』の入門的テキスト。

平明達意。

ローティの思想と文脈を外観できる。

偶然性を自覚すること、アイロニカルであることが連帯に繋がる。

哲学史では必然/偶然の二項対立は重要な概念であり、ローティの哲学は偶然性を強調する。

では何が偶然なのか。

それは広い意味での私たちの言語(ボキャブラリー、概念、ことばづかい)が偶然なのである。

言葉やルールや道徳は、歴史的な産物なのであり、たまたま今の状態になっているのだということ。

言い換えれば、善悪の基準は、絶対的なものではない、ということ。

このように言語や基準やルールを偶然性で捉えることは、これからそれを変えられる可能性がある、というポジティブな面がある一方で、誰かを敵認定すればその敵を攻撃することが善である、という風にネガティブに変化する側面もある。

偶然性はポジネガのどちらに転ぶか分からない。

そこで重要になるのがアイロニーである、というのがローティの思想だ。

しかし、わたしはこのアイロニーの難しさをしみじみと感じる。

偶然性は理解しやすい。

事実として世界は偶然だよね、と言われても反論できないし納得できる。

でもアイロニーは難しい。

アイロニーが難しいとは、どういうことか。

アイロニーとは、いま自分の使っている言葉やルールや道徳を疑うことである。

この言葉は最終的なものではなくて、暫定的なものでしかない、と自覚すること。

ようは、アイロニーは自分を疑うことなのであるから、これは容易には受け入れられないのではないか。

日常感覚的に、偶然性についてはそういうものかもしれないね、と受け入れ可能だが、アイロニーは難しい。

会社の先輩や上司に、その価値観は最終的なものではなくて変わりえますよね、という会話をすることは可能だろうかと考えてみて、わたしは容易ではないと感じる(容易な人もいるだろうけど)。

日常感覚的に難しいからといって、アイロニーが使えない概念だと言いたいわけではない。

むしろアイロニーはとても重要だと感じる。

このアイロニーの困難さは、そのまま連帯の難しさに繋がるだろう。

実際の世界のSNSやネットコメントの炎上を見れば、危険な言葉がたくさん蠢いているのが分かるだろう。

わたしは「誰もがアイロニカルな態度が取れるわけではない」と感じてしまう。

むしろ炎上や危険な言葉に快楽を感じてしまうことは、他人事ではない。

わたし自身にもそういう側面があると思う。アイロニーは人間には難しい。

その対処療法として、ローティは文学やエスノグラフィに可能性を見出している。

文学やエスノグラフィが、人間の想像力を拡張する。

つまり人間はアイロニカルな存在ではない、だからこそ、文学やエスノグラフィなどを通じて、アイロニカルな存在になるのだ。

ローティの著作の入門テキストを読んでみたら、不思議と小説やエスノグラフィをもっと読もうと思うようになった。

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