オリジナリティとちっぽけな自分と。
「オリジナリティ」というものが自分にとってよくわからなくなっていたこの頃。
アイデアが尽き始め、作業が手につかなくなっていく中で、「自分らしさ」の定義を考える。
たぶん。たぶんだけど。
「自分らしさ」というのは自分が愛したものたちの集合体なんだと思う。
食べ物でも人でも言葉でもなんでも、自分が惹かれたもの、深く感銘を受けたもの、負の向きも含めた何かしらの感情を自覚したもの、とか。
人は無数のものに影響を受けている。話し方も礼儀作法も言葉の紡ぎ方も人間関係の作り方も全部そう。人生で関わってきたモノ、コト、ヒト、その経験やら何やらが恐ろしいくらいに関わっている。だから結局、「オリジナリティ」の定義というのは「人が知らないもの」なんじゃないかなと思う。
世界には何一つ「無」から生まれたものなんてないという考えに基づけば、この世に存在しなかったものを0から生み出すことは不可能であり、「何かしらの何番目か煎じ」であるということは否めない。
「これは完全なるオリジナルだ!」と叫ぶ者は基本、元ネタを知らないだけなのだと。
それなら創作という営みへのハードルも下がってはこないだろうか。何かしら、自分の心に訴えかけるものやとてつもなく惹かれたものから「盗む」ことで、自分の色を入れた作品ができあがるのだから。
「何も真似したくない」なんて言っているような人間には何もつくれない。
THE HUMAN HAND IS INCAPABLE OF MAKING A PERFECT COPY.
ってね。
でもここで大事なのは、自分なりの色を付け加えるのを忘れないこと。真似はコピーだけど、色んな人から「盗む」ことで「オリジナルっぽいなんか新しいやつ」というのができる、というわけ。
この行まで来ると、ああ、私はいつも何か書こうとすると、マインドとか人間性の話ばかり書いているなあ、なんてことを考える。
しかしそれでいて、この気持ち悪い熱血にまみれた書き筋が紡ぐ雑記の数々が今日の自分を作っているのだと自覚する。
私は今日も、等身大の自分を綴るんだ。
共感も同情も承認もいらない。ただ記録・媒体としての言葉がここに残る。一次情報としての声ではなく二次情報としての文字が。
私はたまに、メッセージの媒体として声を使う。
何に興味を感じて、何をきっかけにどんな感情を感じたのかを吐き出す場所として、ボイスレコーダーを使う。まあ、日記を書くのがめんどくさいというのはあるんだけど。
LINEでもそう。人に対して文字だけじゃ伝えきれない思いがある時、その熱量や温かさを感じてほしいとき、ボイスメッセージを使う。
そして文字も。思ったことを読み返せるように、私が紡いだものだという達成感を量や質であらわせるように、そしてそれによって少しでも自分を肯定できるように、ノートやパソコンを使う。
手段や媒体は使い分けることによってはじめて、その効果を発揮する。
私自身言葉や表現を大事にする人間として、自分が使いたい媒体で、一番伝えたい伝え方、残し方でものを表現したいと思うから。
そういう、一つ一つのものに対する心がけというものが「その人らしさ」やら個性やらをつくっていくものなのではないかと。
私はちっぽけだ。ひとりじゃ何もできない。
でもそれをわかった上で、日々を紡ぐ。生き様を紡ぐ。私たちがどう生きようが法に触れなきゃ何も干渉されることはない。なら何も怖くない。
私の生き様というものがいつか、誰かがコピーする対象となる日がきたら嬉しいな。