モノを書くということ
noteの下書きが積み重なっている。
日常でインプットしたものを自分の中で消化して再形成してアウトプットしようとしたものの成れの果て。
たとえば、「あやかし漫画の紡ぐ現代の妖怪伝承」というタイトル。
ジャンプの新連載が妖怪モノで、ぬ〜べ〜以降ジャンプ作品で妖怪・怪異を扱っているものが根強く続いているな、と思い書き始めたのは良いものの、現代の妖怪を語る上で山口敏太郎の著書に触れないのはどうなんだ、そもそも柳田國男を読まずして民俗伝承を語るのはどうなんだ、と思い、話を広げられず断念。
たとえば、「おめがシスターズに見るバーチャル世界の水平線」というタイトル。
おめがシスターズのジャンケンどっきり動画を元に、VTuberがYouTuberにはできないことに挑戦していく可能性について書こう、と思い立つも、何個か思い付いたアイデアはだいたい既に動画の形になっていたこと(ついでに言うのであれば大して伸びていなかったこと)から、「広い世界に自分と同じことを思いつく人はいくらでもいる」という事実を改めて思い知り、悲しくなり下書きを消した。
noteという媒体がそんな堅苦しいものではないことはわかっている。一意見を示すのに、エビデンスがどうの、先行事例がどうの、と神経質にならなくてもいいのではないかと思う。
でも、それに甘んじることは、過去の自分が吐いた唾を啜ることに他ならないのではないかという逡巡をどうしても振って払うことができない。
私は、情報を薄めに薄めたネットメディアの記事が大嫌いだ。検索結果を汚染されることも、やたらと挟まる広告も嫌いだが、その薄っぺらい情報のためにキーボードを打ち、あるいはドラッグ&ドロップでコピペを繰り返している人間が画面の向こう側にいることを考えてしまうのが一番嫌だ。
多分彼らにとっての記事は文字数の塊に過ぎず、情報そのものの価値など考えたこともなく、ただ日銭のために記事の体裁だけを整える。
正直、そういう人間のことを心底軽蔑していた。仮にもメディアに携わる人間としてのプライドはないのかと憤りさえしていた。
しかし、どうだ。
そんなことを考えている私はちゃんと"モノ"を書けるのか?私自身の思い出を、情動を、経験を切り売りせずに、情報としての価値を生み出すことができるのか?
何も縛られていないから、ただ"下書きを保存"という逃げの選択肢を取っているだけで、締切と報酬を用意されれば、ただの思い付きに、ただ目に入っただけの一例をあたかも代表例のように飾り立て、考証もどきの言葉を並べたものを「記事」としてリリースしていたのではないのか?
頭の中の声ががなり立てる。
答えは大学時代のレポートのことを考えれば明明白白だ。時間と熱意があれば何冊もの文献に当たることもあったが、大抵の場合ネットで得られる情報だけを都合よくつまみ拾い、チグハグに縫い付けたものを提出していたではないか。
つまるところ、唾棄すべきものとして見ていた「いかがでしたか?」系記事のことをバカにできるほど立派な人間ではないのだ。
ただ、下書きを書いては消し、書いては消し、の結果として得られた結論がこれではあまりにも虚しい。
それに、自分がどういう人間であれ、「いかがでしたか?」を許せるようになるわけではない。
なら、どうするか。堂々とそういう記事をバカに出来るだけのものを書くしかあるまい。
ということで、最初の「幕を下ろす」でも書いた「迷路の行き止まりを探す学問」については真面目に書き切ろうと思う。できれば今月中に。
(他者に〆切を宣言することはモチベーション管理で一番効果があるらしい)
こんな高尚なことを言いながら、ただ自分の感情を切り売りするだけの記事をたぶん先に何本か出すことになるだろうけど、その時はまたお付き合いください。