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(第5回)海と山の尾道 『東京物語』の聖地


 映画『君の名は。」がヒットしたおかげで、映画の舞台となった岐阜県飛騨市を訪れる人が後をたたないという。近年、流行している「聖地巡礼」だ。

 聖地巡礼という言葉は、本来は信仰を根本とする宗教的な意味合いが強かった。だが、いつごろからか、アニメや映画の舞台を訪れる熱狂的なファンの「訪問」などの行為にもその言葉が使われるようになった。

 たしかに、ものごとを深く好きになりそれを強く追い求めようとする行為は、それほどジャンルを選ぶ話でもなく、またそれ自体が信仰や宗教とも遠い概念ではない。そういう意味では、昨今の「聖地巡礼」という言葉は使い勝手がいいし、もし、仮にそれを観光ビジネスに役立てようと誰かが軽はずみに使ったとしても、それほど不謹慎なことでもあるまい。

お伊勢参りもそうだし、古い物語の舞台を訪ねる物見遊山の旅など、昔から「信仰と観光」は切っても切れない仲であった。「聖地巡礼」。私も何度となくこれをやる。たとえば、好きな古い日本映画の世界。

広島県尾道は、小津安二郎監督の映画『東京物語』で、東京で生活する子どもたちを訪ね上京する老夫婦の生活の舞台となった。映画にはいくつもの印象的な尾道の風景が描かれていた。

のんびりと余生を過ごす、遠く「水道」を望む高台の住まい、一家の母の葬式を済ませたあとの宴で使用した「水道」沿いの料理屋、笠智衆と原節子が、亡き母を想いながら語り合うお寺(浄土寺)の境内。その景色を「表敬」したくて、私はこの街に出向いた。

 尾道は小さな街だ。北側は小高い山筋が連なり、南側は海岸部。その海の景色は、対岸に向島(むかいじま)が近接しているため、海というよりは「水道」というほうがしっくりとくる。である。その山と海に挟まれた帯状の地域が市街地である。

JR尾道駅を西端する細長い「市街地」の北側、山麓部に古い寺が点在している。浄土寺は、その「市街地」の東端部に当たる。『東京物語』で、笠智衆と原節子が静かな会話を交わした場所だ。

高台になっている境内から寺門を見下ろすと海が見える。それはまるで何年もの間大切にされてきた名画のようだ。天気のせいか、少し退色した風合いが時代感覚を揺らす。山はいかにも山の風情で、海はいかにも海の情景だ。それがすぐ近く、表と裏にある。土地のつくりの妙ではあるが、この街を歩いていると、景色の既成概念が歪む。そして、その歪みがまた心地いい。

 『東京物語』は私が生まれた頃の作品だ。ゆうに50年は経つ。さいわいなことに、浄土寺や土堂住吉神社、また、ロケに使用し、小津監督が実際に滞在した「竹村家本館」など、いくつかの場所や景色が、変わらない風情でいまも残っている。

 ひとり静かにたのしんだ「聖地巡礼」。そこには、派手派手しい案内板や写真撮影のための無用な標識もいらない。どんなに時が経っても、その土地の人々が、面影や気配さえ残しておいてくれれば、自分のなかにある思い出の映像と照らし合わせ、そこが「たのしい観光地」になる。誇張はいらない。そこは信仰の場。聖地巡礼は、古くて新しい感覚紀行だ。

〜2017年1月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂


【竹村家本館】
尾道水道沿いに建つ竹村家本館は明治35年創業の老舗旅館。海の見渡せる二階の広間で『東京物語』の宴席シーンが撮影され、また、小津安二郎監督が実際に逗留した縁の宿。登録有形文化財に指定されている。小津監督はここの日本料理を愛した。まさに聖地である。


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