「人を変えたければ、まず自分を変えろ」〔クリシェ【凡百の陳腐句】9〕
「人を変えたければ、まず自分から変えるべし」
このテーゼ自体は"One of the best answer"。これ以上のジンテーゼが考え難いほどの"至高の答"である。
なぜなら、これとは真逆である「自分は一切変わることなく、"周りが自分のために"変わってくれる」状況などありえぬからだ。
もしありえるとしたら、これほど人生楽なことはない。自分自身で努力や苦労を一切する必要がなく、全てが自分の都合のいいように働いてくれる世界など、「万人の万人に対する願望」といっていいものだろう。
だからこそ、「アラジンと魔法のランプ」「ドラゴンボール」「流れ星への願い事」など、あらゆる「願いを叶える系のファンタジー」が古今東西を問わず"ウケる"のであろう。
無論、現実世界では「夢物語」。
「なんで、お前のために自分が変わらねばならないのだ」となるのが当然であり、相当の"権力・主従関係"がない限り不可能なことである。
"無条件に"「自分は変わりたくないから、周りに変わって欲しい」となるのはありえない。
ならば、「人を変えるには、まず自分から変える」、こちらの方が"真理"となるのは必然である。
そして、それは同時に「自身で体現せぬまま、他人に向けるべきではないテーゼ」の筆頭ということだ。
「人を変えたければ、まず自分を変えろ」と"他人に求める"こと。
これはすなわち、「自分は一切変わるつもりないから、"お前が自分のために"変われ」と言っているのと同義である。
対価を出したり、メリットを示して説得するといった「自分の行動を変える」ことで相手を動かすのではなく、「無条件に相手に変わってもらう」。
これが、原則的に「ありえない」ことは先ほど述べたとおりだ。
これが可能だとすれば、親・子、教師・学生、先輩・後輩、そして上司・部下といった相当の"権力・主従関係"があるからである。「命令」であるなら、"従わざるをえない"であろう。
しかし、そのような"権力・主従関係"は例外なく「時間的・空間的に有限」。いずれはなくなる。
そのとき、「確かに変わることが必要だった」という納得がなければ、元の木阿弥。「あの人がいないなら、変わる必要はない」となるだけだ。
とある会社の社長は、自分の会社のオフィスを率先して清掃し、社員たちには一切押し付けなかった。
社長たちがそれに倣ってオフィスを清掃するまで、10年の時を要したという。
「人を変えたければ、まず自分から変えるべし」。
人に向けて言うは易く、自身で行うのは"相当な難業"なのだ。
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