お坊さん「日本人は寛大な民族」
神社のことを調べていたらお寺とのかかわりについて気になってきた。
神社は神様を祀っていて、お寺は仏様を祭っている。
いま「まつる」という言葉を打っていたらパソコンに面白い予測変換が現れた。
「祀る」だと神としてあがめるで、「祭る」だと神霊で霊もOKなのか…
へぇ…
まあこの「まつる」という言葉一つにしても神と仏は結構似ている。
私の滞在しているゲストハウスの近くに高田本山専修寺という親鸞聖人の浄土真宗の大元のお寺があったので寄ってみることにした。最近国宝に指定されたらしい。
まず生きることが第一優先
とても立派。こちらの写真は御影堂。
高田本山には如来堂と御影堂という大きい建物が二つある。
如来堂はお坊さんが修行をするところで、御影は一般の人が入って拝むところ。本来であれば修行場である如来堂が御影堂よりも大きい作りになっているが、親鸞が浄土真宗の教えを始めた鎌倉時代は道端でたくさん人が飢え死にしているとても大変な時代で修行よりもまず生きることが大事と一般に開かれた教えにするためにこちらが大きくなっているのだとか。
今は飢えに困ることなんてないもんなぁ。なんてこのお寺の予備知識も入れつつ、如来堂に行くと案内のおじちゃんたちがいて、お客さんもあまりいなかったのでおしゃべりすることにした。
神道と仏教
「伊勢神宮の歴史を学びに東京の方から来ました。」
というと、
「なんやなんやついでに来てくれたんかい!まあ国宝に指定されたしな、見てってくれや」
ととてもフレンドリー。
神社と仏教の違いについてたくさん質問した。
【わかったこと】
・お寺「拝む」神社「祈る」
神社で拝むということはあるけど、お寺で祈るという言葉は使わない。なんだろう、拝むっていうのは手を合わせてっていう情景が思い浮かぶけど、、、
・神社は神道でお寺は仏教
いや文字にすると当たり前なんだけど笑
でも起源をたどると仏教はインドの方から流れてきたもので、神社は日本古来のものだった。だけど仏教も神社と変わらないくらいナチュラルに日本人に浸透している。神仏っていう言葉があるように、一緒にされるくらいだから仏教はとても日本人に根付いている。だけどお寺にお参りする人は神社も行く。
話していてなんとなく仏教と神社の関係性が見えてきた。
関係性が見えてきたことで、来るもの拒まずの日本人精神も見えてきた。
ただ、仏教を拒まなかったのは最初に神道という多神教の考えがあったのは大きいのではないかな、と思う。
神様には八百万の神様がいると思っているからどんな神様が来ても、「あ、いらっしゃい」って感じで受け入れられるんじゃないかなと思った。
(八百万の神々)
宗教は平和のため
ずっとわいわい楽しく話していたおじちゃんたちだったけど、急に真剣になって、話し始めた。
「あんな、なんのための宗教かっちゅう話やねん。日本人は多神教だからいろんなもんを受け入れる。寛大で平和的な民族なんや。ある一神教の民族は自分たちが正しいって言い争って戦争やら内戦やらやっとるけどな、宗教があるのは人々が平和に暮らせるようにやろ。争ってたら宗教の意味なんてない。」
この話を聞いてあぁそうか、と思った。
神社がある中でいろいろな宗教が入ってきてもそれを迫害しなかったりうまく日本文化と融合させているのはそういう考えが根本にあるからかもしれない。
日本は島国だから大陸国に比べて他国から無理矢理攻め入れられるということがなかった。
伊勢神宮のもっとも由緒あるお祭りは三節祭といって、五穀豊穣を祝う祭りだ。つまり稲作が始まった弥生時代の文化だと考えられる。
狩猟採集を主とする縄文人も稲作中心の弥生人が出現したときには、争ったらしいが、完全対立して縄文人が滅んだのではなく、弥生人に溶け込んでいったらしい。
文化を受け入れて変容していくのは日本人が得意としているところなのかもしれない。それは海に囲まれている土地柄、多文化が入ってきたとしてもすぐに伝わらなかったこともあるかもしれない。
お寺に行ったことで神宮がなぜ2000年も信仰の対象になっているのかの謎が少し分かってきた。