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手を繋いだだけで



高校の頃両想いになって付き合ったことがある。剣道部の2学年上の先輩だ。その子はゆかという名前だった。恋人繋ぎをして近所の広い公園を散歩したり、花柄の帽子をあげたりした。先輩だったこともあって敬語で話していた。そのうち彼女は受験をする期間になり、辛そうな顔になって無言で一緒に学校まで通うようになった。そのうち私が耐えきれなくなってこのままじゃつまらないから別れましょうと言った。その後、彼女は成蹊大学に推薦入学し、三菱銀行かどこかのメガバンクに就職して結婚した。普通の女の子だったのだと思う。でも今思うとその時別れてよかったと思う。彼女の前の彼氏がアイツと付き合ってるのは誰だと尋ねに来たことがあったし、私と価値観が結構違って内交的な人だったから別れなかったら私がもっと病んでいたと思う。付き合うというのは難しい面もある。全然違う人生を送ってきた人が一緒になるわけだから関係の齟齬が出てきて当然だ。私の考え方が古風なのかもしれないけれど、男女が付き合うときは結婚を考えるものだと思う。私はその人に対して結婚するまで付き合おうという勇気がなかった。彼女も私にその雰囲気を感じたから手を繋いだだけで別れたのだと思う。親にも付き合っている人がいることは言わなかったけれど妹にはバレた。その妹が同棲をする彼氏ができたと父にラインをした。すぐに私と父は親父の一番長い日を聴いた。私目線の歌だったので涙が止まらなかった。もう妹は結婚する年齢なんだなと思った。さまざまな思い出が蘇る。泣き虫だった妹。留守番もできなかった妹。エメラルドのランドセルの妹。可愛かった妹は大人の女性になり彼氏と結婚するのかもしれない。どうなるかはわからないけど結婚式にはピエールカルダンの一丁羅を着ていこうと思う。もう歳月が経ってしまったことを感じる。私もおじさんの仲間入りだ。お腹が出てきて痩せにくくなってきた。運動をしなくなった。カッコよく服が着れなくなった。モデルやタレントには憧れるけど今の私じゃオーディションに受からないだろう。もっと自分磨きしないといけない。昨日母に自分のやりたいこととやりたくてもできないことを分けた方がいいよという話をしてもらった。自分のやりたいことがないなら無理にやらなくて良いし、やりたくてもできないことを無理にやろうとするから体調が崩れるんだよと言っていた。確かにそうだと思う。小説もやりたいけど、書きたいテーマがない。根本的なところが腐ってると思う。起業もしてみたいけど、何も新しいアイデアが思い浮かばない。モチベーションというか動機が自分にはない。昔語っていたことは理想論で現実にはできないことばかりだった。国連難民高等弁務官になりたいとか弁護士になりたいとか政治家になりたいとか無理難題を言っていた。正直なんでそれになりたいのかはわからなかった。この世の中で変えなければならないことはたくさんあるけど自分にはそれを変える能力が多分ない。マンパワーで人を動かす力もないし、1人でバリバリやる力もない。経営者やデザイナーなど行動力が求められる仕事をしたいがどうやれば良いかわからない。どんな人がそういうものになるのかわからない。今からでもなれると思うけどそのきっかけがない。多分いつまで経ってもチャンスは来ない。作家になりたいと思って書いても認められない。七転八倒の毎日だ。確固たる哲学もないし、自分の信念がない。自分は10年前と何も変わっていない。周りだけが変わった。これほど寂しいことはない。この蟻地獄のような環境から抜け出したい。そのためにnoteをやっているのかもしれない。何かのノウハウとか知識とかは授けられない。けれど、自分が書くことで同じ苦しみを味わっている人を助けられるかもしれない。人を助ける仕事がしたかった。なのに作家という誰も助けられない仕事を目指している。緒方貞子さんに憧れがあった。もう7年も前に会って社会科学の方法論を大学で勉強しなさいと言われてから随分経った。その期間に人生の方法論は勉強できた気がする。彼女と私では視座が違う。彼女は学問の上での目の前の現実を見ている。私は少し先にある未来を見ていた。未来ばかり見ていた。已今当という言葉が仏教にある。過去現在未来という意味だ。その全てを見るのが仏法だと説く。私は全てを見ることができていると思う。それでもダメダメだ。見えているだけで何も実になっていない。私の夢は風呂屋を空にすることだ。普通は武道館をいっぱいにするとか東京ドームを満員にするとかだけど私の場合は風呂屋を空にしたい。もう空だよと言われて笑われるかもしれないが徳川夢声のようになりたい。マルチライブパフォーミングアーティストになりたい。芸能人になりたい。そのために今頑張っている。これは憧れとか夢とかではない。本気で芸能人になろうとしている。綾野剛のようになりたい。クリエイティブ暴走族になりたい。その集団にくっついていくことしかできなきかもしれないがやってみたいことは確かだ。家族は止めるかもしれないし、自分の才能はいつ開花するかわからないけど、地道に今の活動を続けたい。花が咲くまで踊り続けたい。今というこの瞬間は人生という大きなパズルの一ピースなんだよと高校生が語っている。重要なのはどう人生を生きるかなんだよ。カキ氷を食いながら叫ぶ。三年ぶりの祭りに来ている。一時間くらいで飽きて記事を書いている。男女の仲の話から自分の夢について語っている。充電を気にしながら物を書いている。自分は何になるのか明確な道理がないまま歩んでいる。その中で得た物はあるのだろうか。私はまだ何者でもない。宙ぶらりんのピエロだ。何もできない笑われるだけの道化師だ。この広い東京というサーカス小屋の中で遠回りしている。小説家になるという夢想を描きながら完成した小説のタイトルを考えている。語彙が少なくて全然浮かんでこない。小説を書くことは正直面白くはない。自分の中身を曝け出すキツい仕事だ。それでも小説を書きたい。その根幹の動機は人に力を与えたいと思っているからだ。生きる力、生きる希望。それしかない。今日は辛かったけど木下雄飛の小説読むと元気がもらえるなと思ってもらいたい。私はこの10年間で無感覚になった。色欲がなくなって宦官のようになった。それは小説を書く効果かもしれない。今は生きづらい世の中だ。戦争や厄災、疫病、などさまざまな危機がある。その中で力を発揮するのが文学だと思う。ユゴーやデュマは後世の政治家に影響を与えた。プルーストもそうだ。失われた時を求めているのが現代人だと思う。私も過去に置いてきた物が沢山ある。恋愛、青春、夢。その中で叶えてきたことも沢山ある。幸せになるという目標はクリアした。あとは夢を叶えるだけだ。芥川龍之介賞という夢を叶えれば私の人生はコンプリートする。それには辛抱と文学の研鑽が必要だ。受験じゃないけれど傾向と対策も有効かもしれない。芥川龍之介賞まで行くと運と実力の領域だ。私にそれを引き寄せる力があるのかどうか?まだ否だろう。高瀬隼子さんのエッセイを読んだ。担当編集者から食事に誘われないという内容だった。おいしいご飯が食べれないという小説が現実にも影響を与えている。こういうのを純文学というのだろう。ピュアすぎて現実だと思われる。一番の純文学作家は太宰治だと思っている。彼は自分の死も文学にした。人間失格ではない純粋な人間なのに自分を堕落した失格者にした。人間を失格する話というのは物凄い殺気を感じる。人を下手したら巻き添えにして死ぬような。まだ太宰治を超える純文学作家は世界中どこ探しても出てきていない。私はそこまでの作家にはなれないだろう。自分の追い込み方が甘すぎるし、文学が下手だから偉大な人間になるには三千年は必要だ。人間の寿命は百年と短すぎる。高校生がラムネを爆発させる。それが青春という物だ。その躍動感が私も欲しい。私は会員制の図書館をやりたい。サブスクリプションで本が借りられて1ヶ月借りられるような施設を作りたい。まだこのビジネスは誰もやっていない。アイデアを考えた人はいるだろう。でもまだ現実になっていないと思う。多分。この辛い世の中を生きるには本が必要だ。本は友達のように側で勇気をくれる。私にとって本は宝物だ。洋服も本もダイヤモンドのように光って見える。毎日本を読んでいる。読めない時は物語を想像する。そうやって生きてきた。本がない世界や華氏四十五度の世界だったら私はもっと生きづらくなっていると思う。本に救われたことは何度もある。本を食べるくらい集中して読む。そうしないと面白さがわからない。本は盟友だ。一生側に置いておきたい。私の持っている本が人間だったら最強揃いだと思う。老子荘子、半藤一利、坂口安吾、ハイデガー、村上龍に村上春樹。哲学的な文学ばかりだ。その中で朝吹真理子や川上未映子が花を添える。彼女達は私が好きな作家だ。美しい文体で真実を書いている。文学の世界では男性に比べて女性が目立つことは少ないがこの2人はSNSで発信もしているし、自分の信念を持っていてとても尊敬している。私は男性だが文学において男女の区別はないと思っている。その人のアイデンティティではなく作品で評価されるべきで芥川賞候補作が全員女性でもニュースにするほどのことではない。ただ女性の方が感性が豊かで男性にはない美的な感覚を持っていることも確かだ。だからどんどん女性に作家を目指して欲しい。私にはまだ文壇は窮屈な男性社会に見える。普通の業種よりも女性の割合が大きいがまだ発言権は男性の方がある。編集者も男性の方が多い気がする。岩波文庫や角川の創業者も男性だ。ジェンダーギャップを埋めるには女性が作家になるしかない。ここまで言うと政治的に聞こえる。でもそのぐらい言わないと日本の男性社会は崩れない。ジェンダーに関して文学者が扱う機会は増えている。恋愛を書くにしても多様性があることを考えなければならない。西加奈子さんはジェンダーギャップや性の問題について深く掘り下げて書いている。漁港の肉子ちゃんのラストも主人公の性の話だし、美しい人やiでもそういったことを書いている。芥川賞候補作だったギフテッドも性やジェンダーの話だ。文学にはセックスやドラッグ、暴力がつきものだった。私はそれを変えたい。こんなに長い文章を書いているのも文学や文章で何かが変わると思っているからだ。まだ私の影響力は少ない。発信力も未熟だ。それを鍛えるためにnoteをやっているのかもしれない。さまざまな問題や実体験を語ってきたが一番言いたいのは多様な考えがあって自由で平和な日常を送れるのが一番幸せだと言いたかった。この文章は書き上げるまでに一週間くらいかかった。ここに私の考えの一端がインプリケーションされている。次は自分の人生についての価値観を詳しめの記事で書きたい。

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木下雄飛
noteは毎月更新しています。東京を歩くたびに僕の世界はアップデートされています。その日本一の都市で日々起こる日々の現象を描いていきます。お気に入りの記事があったらいいねコメントしてください。