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手書きの記録

【注意】この記事には、『命を守る為の精神科入院』を勧められた際の病状が細かく記される描写があります。また、描写が必要となったことで過去の性的な被害、自傷行為による流血表現・幻覚・幻聴の描写があります。ご了承頂ける方のみ、ご覧ください。


手書きの味わい

ある時から。
私自身、日々の記録を付けるにも、
『自分が気に入った文具やツールを使用しないと、長く続かない』という癖が出てきました。

自分の中での記録したい事を記録出来ない状態だと、『三日坊主』どころか、二日目で
「何か違う……。これじゃ記録出来ない……」と、辛くなって、辞めてしまうのです。

睡眠時間
気分が良い時
気分が悪い時
創作活動をした時間
運動をした時間
外出した時間

私自身の日々の記録を『手書き』で綴る事で、気持ちを整理したり。
出来た事を認める事に繋がるので、私に取っては本当に大事な事なのです。

私にとって、記録を付ける大切さを、小学生の頃から培い、分かっていた筈でした。


日記を否定された日々

17歳……高校2年3学期の中旬。
2月13日に性犯罪に巻き込まれた事で、翌年6月末付けで高校を自主退学しました。
校長は、加害者男性が本当の被害者だと言い、性犯罪というのは「性犯罪に会う女が悪い」と堂々と被害者の前でも発言するような方でした。

◆刑事事件にしないよう説得する
◆本当なら、病院も行くな
◆示談金の交渉を進める
◆最後に全てをなかった事にする


商工会議所でも発言力がある立場にあったそうですが、この校長の人格を知る人物に相談を持ち掛けた所、昔から事件は揉み消すような奴だから。
「その学校は今すぐ辞めていい! 学歴欄にその学校の名前を書く事こそ、一生の恥になる」と、校長の悪事を暴露して、私の心を1番に考える事を優先するように説得してくれました。

高校は辞めても、心の傷は中々言えずに、酷いリストカット、アームカット、レッグカットをする事で、心の痛みを紛らわせようとしていました。

精神科にも通院していましたし、自宅療養中にも、時に悲鳴を上げて暴れては、桐箪笥の扉を容易く蹴破ることさえありました。

でも、私はこの時に小学生から続く日記を、たった一行でもいいから続けていました。

絵を描いて、彩って。
時には、男の子の告白ゲームの被害にあって。心をズタズタにされたり。
大好きなアーティストのLIVEに行った事で救われた事とか。

その時の素直な気持ちを綴り続けていました。


確かに、不安定な爆弾のようで。
自殺未遂をしたりと、問題が絶えなかったこの頃。

私は、一回り程年齢が上の方と知り合ったのです。

出会う人間によって、人生を左右されるのは起こり得るのです。


私は、その人を心から信用し。全てを素直に語りました。
親族の自殺など、人の人生という繊細な事を、打ち明けてしまったのです。

結果、人の死を弄ぶ最低な女だと、周囲に言い触らされて。
関わらない方がいいと、周囲に言い触らされ。
過去の性暴行の被害も嘘だと否定され。
考え方も、病気も否定され。
私がパニックを起こし、自殺未遂をした暁には
「やっば、死んだかと思ったよ~(笑)」と楽しそうに笑っていたのです。

今思えば、人生経験になったのですが。
世の中には、こういう変わった人物もいるのです。

◆医者の真似事をして、カウンセリングをしていた
◆日記を書く暇があるのは、れいりが低能でクズな証拠
◆精神科は『甘え』論で、処方薬全否定
◆殺人の後に死体を遺棄した
◆男性を裏山に埋めた
◆警察官の知り合いがいるから隠蔽してるんだ

上記は、私に対して常に言っていた『嘘』と『異常行動』でした。
私はこの人物と訣別した際に、何度も謝罪と言い訳を並べられました。

『あの時の私は、自分が怖いくらいに異常だったからさ。今聞いてると本当に普通じゃなかったし、れいり。許して?』

凄い言葉だと思ったと同時に。

私は、何を信じたらいいのか、分からなくなったのです。


今思えば、本当に自分に驚くばかりですが、私はこの人物に自ら、メイドのように働くようになってしまっていました。
母親からも、幼馴染みからも、盲信する異常性を指摘され、沢山の痛みに苦しんで。

私は死に物狂いで、この人物から逃れる為に必死でした。
長い時間を掛けて、離れられた時には、私は安堵して泣き崩れました。

そして、余りにも辛すぎた事で、私は日記を一行すら綴れなくなり。
この頃には、散々心はボロボロになり【私】という存在自体が曖昧なものと決定付けられました。

何を書いたらいいのか。
何もかも分からなくなり。
物事の継続が困難となったのです。



双極性障害Ⅱ型と診断されるまで

現在の主治医の先生のクリニックに初めて訪れたのは、2021年3月31日の事でした。

その時、私は持病の喘息と、不整脈。
そして子宮内膜症とチョコレート嚢胞では、常に痛みを抱えて動けなくなる程の痛みを抱えていました。
更に、不眠です。

もう、人や動物がただの化け物に見える幻覚の中、誰かとすれ違う事すら、恐怖と不安に泣いて。
脳内に響くのは『死ね』という幻聴でした。

COVID-19(新型コロナウイルス)の事もあり、特に精神科や心療内科系のクリニックは予約制が多いのです。
初診は必ず、患者さんの状態を知る為に長くなる傾向にあるからです。

2021年1月には『死にたい』ではなく『あ。これ、死ぬな』と直感的に感じたのです。
上司にも何回か助けを求めましたが、『気にし過ぎだよ』と助言を受けて。会社の誰もが…同じ言葉で励ましてくる事が続いて。
私は、遂に助けを求めなくなりました。
「痛い」と泣きながらも、ずっと笑っていたのです。

でも、知り合いの誰にも。
まっすぐに心を開いての相談が、出来なくなっていました。

どうせ、私の言葉を否定されるから。
どうせ、私の考え方は伝わらないから。
どうせ、上から押さえ付けられるから。
どうせ、頑張りを認めて貰えないから。
どうせ、どうせ、どうせ、どうせ………。

「私はれいりを見守っているからね。」
見ているだけで、助けてはくれない。
当然の事じゃないか、と。

そして、
『命の電話』に連絡をしても。一晩、二晩、三晩と……一切繋がらず、制度にも見棄てられたと、そう思いました。

不眠のまま、仕事に出掛けては、身体を蝕む痛みに耐えてました。

役所の方に相談をしても、たらい回しにされ続けました。
何も解決もせず。
一時は私自身も死を覚悟しておりました。

だからこそ。
私は、法律相談所に電話をしました。
家族は帰って来ていいと言ってくれてましたのですが、帰るとなると、大問題がありました。

それは各種病気の『治療継続困難』という現実です。
 公共交通機関を使っても、治療をしに行くのにも、仕事をするにも。
片道900円で約1時間程、バスに揺られる必要があるのです。

ですので、法律相談所の担当者の方にもアドバイスを貰い、一人暮らしを継続しつつ、治療に専念する事を薦めてくださったのです。

そして2月の始め。
関東へと引っ越しました。

3月末に現在通うクリニックに行くまでの間にも、精神はどんどん削れていき。
命の電話は、やはり一回も通じる事もなく。

良くなるどころか、ひたすら奈落へと転がり落ちて行きました。
その時にはもう、行政から来る『書簡』すらも、何故『あ』と書くのか、何故そう発音するのか。
理解出来なくなっていたのです。

行政は勿論、法律家の方などにも相談し。
もう少し後にする予定であった精神科・心療内科の病院に行く予定を急遽、立てるに至りました。


予約制である事から、電話を掛けたのは3月の29日の午後。
4月はもう新規の方の枠が満杯だとの話を聴いて、私は『1回の勇気』を出す事がもう出来ない状態でしたので、泣きながら『もう無理です、もういいです』と諦めました。

しかし、異常事態だと悟った受付業務をしている医療事務の方の対応により、私は過去に何回か未遂をした『自殺』を回避する事が出来ました。

嫌がる私を殆ど無視し。
無理矢理、3月31日に新規予約を突っ込んでくれたのです。



『念を押されたあの日』








予約を無理矢理入れられた私は、パニックになり、ボロボロと泣いていました。
「もう無理っていったのに…」
その時は、医療事務のお姉さんが、鬼だと思いました。

どうしても手首を切りたくなっても。ずっと我慢し、予防し続けていたリストカットを繰り返してしまう状態になってしまったのも受診を早める要因でした。

市販薬の痛み止めを、1回につき6錠飲み。
睡眠導入剤と同時服用をしては、久し振りにやってしまったオーバードーズで、無理矢理意識を刈り取って眠っていました。


通院当日

嫌々思っていても。3月31日はすぐにやってきました。

働いていた時と変わらず、バスの中の人間は皆、灰色の肌に顔は無い。
変わらない正常な視界に、ひたすら怯えながら予約したクリニックに向かいました。

駅前では迷い、誰かに助けを求める事も出来ず、スマホの道案内を頼りに、ひたすら歩きます。
バスが。
乗用車が。
バイクが。
自転車が。
通る度に、轢かれて死ぬ姿が脳裏を掠め。

常に『自殺』した姿を脳裏に浮かべる事で、最大限の平静を装って、何とかクリニックにたどり着きました。


音が煩くて。
人が怖くて。
不安で、消えたくて。

そんな中で、今の主治医の先生に出会いました。
私の場合、その妄想・幻覚・幻聴を見ると症状は『統合失調症』にも見えるが、『発達障害』に見えなくもない、と。

私の場合は『幻覚』と『幻聴』、『妄想』を自己認識していましたし、周囲を見る事で、普通に近いように振る舞う事を覚えていたので、先生の判断を困らせました。

そして。
1週間後に明らかとなる鬱状態のチェックシートで『85点』の重度の鬱状態に関わらず、ゆっくりとはいえ、私の適切な応対能力の高さに驚かれたと同時に。
過去の診断の誤診すらも見抜いてくださったのです。


1週間後。
前述した通り、鬱のチェックシートの点数が『85点』で、先生の診断と同じ重度の鬱状態という結果がでました。

先生は、この時点で鬱病は間違いなくとも、双極性障害のⅡ型か。または統合失調症か発達障害かも、殆ど特定していらっしゃいました。

しかし、それと違って私の周囲には。
鬱病を患って、療養してる方から
「85点かぁ。まぁまぁ高い点数だね。一応軽い鬱なんだねぇ…」と言われて軽い鬱と錯覚した私。

翌週。
主治医から大目玉を食らいました…(笑)

『重度の鬱で、強い希死念慮があるのに軽いと思った理由は話せる?』
「友人が……一応軽いけど鬱なんだね…と」
『(間髪入れず)辛い言葉を言われてしまったね、そのうつ病の子の話は、受け流すようにね。貴女は貴女の命を守るんだよ。貴女なら出来るから』
……との事でした。




追い詰められた現実とは?

元々勤めていた会社の広すぎる工場内で勤めて下さっている企業医と保健師の先生からは、定期健診の時点でカウンセリングを薦められていました。

◆2019年11月中旬~2020年1月末…自称元殺人犯(刑期を終えたらしい)からのセクハラとストーカー
◆2019年12月30日…自室の上階の女性の飛び降り

この時点でも、私の心はかなり削れていたのです。
その後、無意識のうちに線路にぼうっと立ち止まり。遮断機も降りた中での、警報器で我に返って、急いで踏切から出るという、恐ろしい事になりました。
しかし。当の本人は、死ぬ気などありませんし、寧ろ笑い話のネタにしてた位です。
現主治医曰く「多分、その時は、心の何処かで死んでしまおうと思っていたんだと思うよ」とのことです。

そして、思い返せば。
当時お世話になっていた内科(総合病院)、呼吸器科、婦人科、脳外科、皮膚科、循環器科の担当医師全員からも。カウンセリングを薦められている状態でした。
そう。完全なる非常事態です。

笑って誤魔化す、友人や知り合いが居る中、医療関係者の中でも国家資格を持つ『医師』の皆様にだけは、私の精神状態の。つまる所、脳の分泌物異常をいち早く伝え続けてくれたのです。

チョコレート嚢胞は、2020年6月に悪性を疑われて検査をして頂きましたが、癌ではなかったのが救いです。
しかし、結論から言いますと、治療しているにも関わらず、半年で2センチ強『お育ちあそばされて』しまいました。
茨城の婦人科の医師には、もう手術しかないとも言われていたのです。

痛みでのたうち回る日々の中、周囲に言われた言葉は。

◆「うちの奥さん、れいりさんと同じ子宮内膜症でしたけど、半年で治りましたよ? 治療、サボってるんじゃないですか?」
◆「そんなに育つとか、意味分からないですよね(笑)はっきり言って、カラダ壊れてるんじゃないですか?」
◆「ロキソニンとかさ。どうにか出来ないの? 治療してる人の症状には見えないんだよね」
◆「食欲ないとか言ってるけど、食べれないの?食べないの? どっち?」
◆「何なら、さっさと切ってとっちゃえば良いと思うんですよ。今なら、そんな偏見なくなってるんだし」
◆「女として、終わってると思いませんか?」

これらの言葉を言ったのは、因みに異性です。
傷付くとか、悲しいというより。その方の『心の物差し』を垣間見た瞬間でした。
病気の症状は、みんな同じになるとは限らないのに。

これに比例するように、異常な外観の幻覚が起きる人々が増えていきました。


勿論、そんな人間とは逆に、正社員の先輩方は、私を最後まで守ってくれた上司がいました。
一切、恩きせがましい発言すらせず。無条件で経歴を知って尚、普通に接してくれて。
身体を気遣ってくれて。
命を大事にするように考えてくれた素晴らしい方がいます。

お名前は明かせませんが。
技術と安全と、品質や手順書。人事と機密を管理している『技術管理』の皆様には、御礼を言っても足りない位でした。

事務所内の、皆様のおかしいほどの激務が、現場の責任すらも『技術管理』に回ってくる不条理も。どうか改善される事を祈ります。


因みにですが、子宮内膜症、チョコレート嚢胞についてですが。関東にある帝京大学附属病院の医師に見ていただいた所、手術も免れ、投薬治療を継続出来るようになりました。
痛みはあれど、違和感を感じる程度まで改善したのは、本当に良かったと思います。


お盆休み前の異変

投薬治療で、だいぶ落ち着いて来た頃の事です。

現、精神科主治医の初診時期それ以来の、最低で最悪状態。
いえ、寧ろ『災厄』です。

2021年8月22日から始まった『手書きの記録』に繋がる事になります。

それまで、双極性障害Ⅱ型の人が付ける『気分と睡眠の記録』は、全く続きませんでした。
コンビニで、その記録シートのデータを上手くプリント出来ず。
大学ノートに記録するも、続かず。
ルーズリーフでもダメ。
やる気だけがあったので、試行錯誤の毎日です。
そんな中でも、治療経過は順調と言えば、順調だったのだと思います。

お盆休みに入るということもあり、8月3日の診療後は、珍しく3週間の期間が開きました。 

しかし。8月24日の定期診療の段階で……精神科の主治医より
『命を守る為の入院』を薦められました。

有名人による命の軽視発言

私は、私の症状を他人の所為にするつもりはないのです。
豆腐メンタル過ぎる自分の考え方と精神力の至る所と考えてました。

しかし、世の中でもかなり炎上した、某メンタリストの動画を…見てしまっていたのです。
何見てるの、私。と、今なら思います。

結果。
◆『仕事が出来なくなる程の病気を発症してごめんなさい』
◆『生きていてごめんなさい』
◆『社会不適合者でごめんなさい』
◆『私なんか要らない!消えろ』と叫ぶ
◆ずっと泣き続ける
◆手首から15センチ程をリストカット、アームカットをし続ける
◆『死ね』という幻聴の悪化
◆睡眠導入剤のオーバードーズ未遂
◆禁止中の飲酒未遂
◆煙草を買ってきた上での、吸殻の水を飲もうと試みる(超危険行為)
◆泣き笑いしながら、身体中を掻きむしり、傷だらけにする(色素沈着3ヵ所)
………等。

しかし。
本人が症状を自覚して、主治医に報告しつつも。それがどれだけ危険行為で、自殺に至ってしまうかを理解出来ていませんでした。
あはは、あはははは、と。
狂ったように笑っていました。


何故、入院を薦められるのか、理解出来ませんでした。
私は、私が至って普通だと思いましたし、私はショックを受けていない。
そう思っていました。

しかし、主治医の先生には、自殺の危険があると見えていたのです。
『命を守る為に入院しよう』と言われた時に、ただただ、私は……
「我が儘を言いますが、入院は待ってください」としか返答出来ませんでした。


一部の知り合いには、
「私は入院を薦めるよ。私の負担も考えてよね」
「私はさ、れいりはもう、死ぬっておもってたよ。(私は主治医に相談すると伝える。すると、)まあ、一応医者だしね。医者のいう通りにしたいなら、すれば? 私は何度も言ってるからね?」
「まぁ、診て貰いたいなら、診て貰えば? れいりの責任だしさ」
 
こう言った言葉を投げかれられ。
更に追い詰められていました。

だからこそ。
入院を薦められた時に、絶対に入院して堪るか……と思いました。
常に、上から投げ掛けられる言葉たち。
それは凶器でしかありませんでしたし、更に私を追い詰めるには十分でしたが、知り合いの思い通りには、なりたくなかったのです。

それ以降も。
「入院する決心を着けてくれたなら、私は安心したよ。これで私の負担が減るし」
「れいりのせいで、私は胃が痛いんだよ。私の為にも入院してくれない?」
「いつ死ぬか、心配なんだよ(笑)」
そう、続きました。


診察を受けた際の主治医の先生には『いつでも電話してきてね。一番は貴女の命だから。死んだら、何も出来ないよ』と何度も言って頂きました。

でも。
今、色々な言葉に負けたら。
もう2度と立ち上がれないと……私はそう思っていました。
『意地でも、回避してやる』
そう思ったのです。

私をどんどん追い込んでいく、知り合いの言葉に勝ちたかったのです。


入院回避!

意地とはいえ、殆ど『掛け』でした。
私は、自分の命をかけたようなものです。

『秋物の服が欲しいから』
『この音楽が聞けなくなるから』
『本が読めないのは嫌』

知り合いには、こんな言葉を放って、痛くない振りをし続けました。
現在の価値観である一般社会の『普通の人』を演じ続け、大丈夫な振りをし続けるのです。

続く知り合いからの圧迫を回避する為に、どんな手段も取ろうと思いました。

しかし、入院を回避した事を喜んでくれる大切な人たちとは裏腹に。
投げ掛けられた言葉は。
『私は、れいりがいつでも死ぬのを覚悟してるから』

私は、怒る事もなく。ただ、聞き流すしか出来ませんでした。
ショックとも違います。

諦めに近い感情でした。


しかし、沢山の善意によって、心が軽くなったのも本当です。

周囲に迷惑を掛けてしまうことも多いので、苦く思うのも事実です。


スタディープランナーとの出会い

8月18日の時点で、双極性障害Ⅱ型の生活記録をしっかり付けれるものを探していました。
沢山のノートを見ても、カレンダーを見ても、理想のものが無いのです。

双極性障害用に発行されている記録のデータをダウンロードしても、上手く反映されず、使えない事実。

早く記録を付けることが必要だと強く想いました。


酷い鬱状態に入ると、文字を書けても、文字を読んで認識できないので、確認が出来なくなります。
これは、今も尚、酷い鬱状態になると現れてしまう症状であり、大好きな文字に触れる事が出来なくなる地獄の時間になります。
なので、時間を書き込むではなく、
色で塗り潰す事が出きる』ことが前提条件なのです。


色で、どんな状態だったのか。
それが分かればいいのです。
文字は、書ける時に書き込めばいいのだから、後回しにすれば楽だ、と。

心が酷く弱り、自分が生きている事が赦せなくて。
毎日リストカットとアームカットをし続ける中で、自分の中に引き込もってしまっている本当の私を、守らなければならないと思ったのです。

カレンダーや日記帳、家計簿、ルーズリーフ、ノート。
沢山沢山、インターネットで調べました。

レシートの裏に、記号だけ書いていても。
私自身と向き合う事が出来ないのだから。


双極性障害Ⅱ型を、ちゃんと知って。
向き合って。

毎日付けていた筈の日記が、出来ていた事が出来なくなっていた事実にも気付いて。

今は、何故出来なくなってしまったのか。
そのキッカケを思い出しては、反省しています。


そうして、インターネットでずっと探しているうちに、学生時代の時間割を思い出して。
勉強が楽しくて仕方がなかった事を思い出せた事で、やっと、辿り付けたのです。

コクヨCampus Study Planner Weekly
キャンパス スタディープランナー ウィークリー

出会う事が出来た事に、酷く感激しました!
10分事に区切りがあるので、記録がしやすくて。
更に蛍光ペンの幅とピッタリ合うのです!

これならば、自分の心の状態と行動が記録出来て、更に1週間の心や行動を見れるので、本当に理想そのものでした。


入院をする事を勧められた中で。
私の『意地』を通した事については、本当に周囲に心配を掛けたと、そう深く思っております。

でも、こうして記録をする事で、行動が自信に繋がるように、目で確認出来るようになったのです。


元々の発想は、勉強の予定を立てる為のノートなのかも知れませんが。
私にとっては、治療の為の心強い相棒になっております!


幸か不幸か?

私は、私が不幸だとは、思っていません。
大変な事も多々あるのですが、それもご愛嬌です。

誰かの生活を羨んでも、私の病気が治る訳ではありません。

「悲劇のヒロインを気取るのも、馬鹿らしい」と思いますし、どちらかと言えば、ただ、好きなものを愛でていたいのです。

私の経験が、例え一人でも。誰かの役に立つなら、それだけでいいと思います。


私の場合、今回が、逃げてはいけない場面に直面していたのだと思います。
でも、逃げるのも立派な手段です。

元々、理性で全てを押し込めて置けるタイプなので、爆発物処理を常にしなければなりません。

だからこそ。
何にも出来ない日があっていいと思います。

貴方も、私も。
生きているだけで、立派な事なのですから。


カーテン開けられなくても、
開けられなくて、構わないと。
私はそう思っております。

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