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お正月は水餃子を食べる母の実家/中国に縁があった先祖の話

親戚が集まると決まって水餃子!

私の母(96年他界)の実家は、親戚が集まる日には必ず「水餃子」を作る家でした。お正月には(日本のおせちも少しはありましたが)みんなで水餃子を作って食べるのが習慣でした。

母方の曾祖父が、中国人のお友達から習ったのが始まりだそうです。

水餃子3

上の画像のような餃子です。
中身は白菜と豚ミンチで、にんにくは入っていません。
味がしっかりついていますので、たれはつけませんでした。


訳ありで満州(今の中国東北地方の一部)へ渡った曽祖父

曽祖父は満州鉄道(満鉄)の駅長でした。

50年以上も前、私が4、5歳の頃に亡くなっておりますので薄っすらとした記憶ですが、静かで優しい田舎のおじいちゃんでした。

叔父(母の弟)の話によりますと、
満洲に渡った理由というのがつらい話です。

曽祖父の火の不始末から、学びの場の「寺子屋」で火災が起きてしまいました。その申し訳なさから、曾祖父は
「満洲で一旗上げて、償いをしなければ!」と、決心します。

その願いは、後に叶ったとのことでした。

また、満洲では仲良く交流をしていた中国人も少なくなかったとか……
中国の友人の家を行き来しているうちに、大好きな水餃子の作り方を習得しました。

画像2

↑↑当時の満州の画像です。


なぜ曽祖父は40代で退職し、自給自足生活を始めたのか?

曾祖父は太平洋戦争勃発以前に、突然満鉄を辞めました。

家族を連れて実家のある山陰地方に帰り、50歳前の若さで隠居生活を始めたそうです。自分たちが食べるだけの畑や田んぼを耕し、豚や鶏を少し飼いながら、ほぼ自給自足の生活を始めました。

私は難しい話は苦手ですが、叔父の話によりますと、大東亜共栄圏の構想を、曽祖父はアジアの共存と考えていたそうです。

しかし、日本による侵略の色が濃くなったことで非常に落胆し、悲しみ、家族と共にひっそりと田舎に帰ったとのことでした。

もしも、敗戦後に命からがら帰国ということになっていれば、
曾祖父は殺され、曾祖母は残留婦人、祖母と祖母の弟や妹は、残留孤児になっていたかもわかりません。もしかすると、全員生きられなかったかもしれません。


82歳で亡くなった曽祖父

その日はめずらしく「ちょっと調子が悪い」と、曽祖父は床に伏していたそうです。

祖母:「お父さん、お粥でも作りましょうか?」
曾祖父:「ああ、お粥か……楽しみだね。」
祖母がお粥を持って行くと、もうすでに息がなかったそうです。

亡くなる様子までが静かな人でした。


北京で食べた水餃子で曽祖父を思い出す

94年、夫の駐在に伴って、1歳の息子を連れて北京での生活が始まりました。

住まいの近所に中国の家庭料理店がありました。
初めて店に行った時、私は迷わず水餃子を注文しました。
ひとくち口に入れたとたん、
母の実家を思い出し、懐かしい気持ちになりました。

曽祖父から当時の中国の話を聞きたかったなあと思います。
年齢が離れすぎていて、無理な話ですが……

中国の人たちと仲良く交流してくれていたことに感謝です。
「ひいおじいちゃん、ありがとう!」

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