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【ASD】食問題

10歳で養護教諭の助言をもとに小児神経科に行っていなければ、私が発達の何かであることを悟ることがなかった我が家ですが、後々になって過去を振り返るとやはりASD傾向は小さい頃からありました。

その一つが、食事です。私は、超が付くほど食が偏った、しかも三角食べが全くできないばっかり食べ人間でした。今日はその話をしたいと思います。ちなみにですが、29歳の今は、父親よりも好き嫌いがないですし、三角食べもできますし、職場の人とランチに行くと「ダニエル先生(私)は食べ方が丁寧、お皿がいつも綺麗。お育ちがいいんでしょうね」とお褒めの言葉をいただきます。今日は、私の食育日記です。


1.少食

まず、はじめにですが、私は正式にいうと偏食というより少食なタイプでした。小さい頃は、顔だけはまん丸だったのですが、脚や腕は折れそうと言われるくらい細く、お腹も常にへっこんでいるガリガリな幼児・少年でした。学校の身体測定で、痩せすぎに引っかかったこともありますし、引っかからなくても常にボーダーラインにいました。食が喉を通らないのです。

これといって嫌いな食べ物があったわけではありませんでした。肉でも魚でも、ピーマンでも茄子でも、少量なら味わって食べることができました。どうしても無理だったのはトマトくらいです。ただ、少し食べるとお腹が膨張した気分になり、それ以上は気持ちが悪くて食べられないのです。

私の少食エピソードは枚挙にいとまがありません。ご飯を残すのが当たり前になってしまっていた私は、寝言で

「もう食べられません。もう食べられません。」と繰り返し唱えていたそうです。夢の中でまでお残ししていたみたいです。幼稚園の頃は、あまりに給食を食べない上に、それで活発に園庭に出ていくので、この子は倒れてしまうのではないかと先生が心配して母に相談をしたそうです。母に今でもネタにされるのは、友達親子とバイキングに行った際に、一回目に取ってきたプレートを完食した私に、母が「もっと取っておいで」と言ったところ、「今食べ終わったとこやのに」と返答したことです。「バイキングやったのになー笑」と今でも笑って語り継がれます。

父にも母にも祖父にも祖母にも大きく心配をかけたと思います。内心、この子は丈夫に育つのかとも思ったかもしれません。ただ、実感的には、うちの身内はみんなあっけらかんとしていました。

もしかしたら、私が第二子ということも影響しているのかもしれません。母はもともとは真剣に悩むタイプの人だそうで、実際に第一子である姉が赤ん坊の頃小さかったり、ミルクを飲まなかったり、食が細かったりした時には、病気を疑って心配し、どうすれば解決できるかと悩み抜いたみたいです。ただ、そんな姉も私が生まれ育つ時代には、幼稚園の中では背が高くて何でも食べられる人になっていたので、少食ガリガリの私を見てそこまで神経質に悩まれる機会は少なかったように思います。食べないということで苦労はたくさんかけたと思いますが、上記の幼稚園の先生の心配話にも「大丈夫です。朝ご飯食べてるので。」と大きく構えて返してくれたようです。

また、姉は姉で、私がお残しするとそれを食べることができるので、私が残すのをずっと待っていたそうです。少食なことを、家族全員が大らかな雰囲気でみてくれていて本当に良かったです。ピリピリした雰囲気になると余計に身体がご飯を受け付けなくなる体質なので、なんとかなるとドンと構えてくれた親や残り物を楽しそうに待ってくれていた姉に感謝です。

ちなみに、今はバイキングでは無限に食べ続け、旅行に行けば各地の名産を楽しみにし、たとえ入院しても三食を楽しみにする人になりました。ガリガリもとっくに脱出しました。何をどうしたわけではありませんが、成長期の中学生くらいから完食が当たり前になりました。最近は、もう少しお腹のお肉をどうにかせねばと悩んでいます。

2.共食が苦手

「共食」という言葉がどこまで一般化しているのか分からないのですが、家族で食卓を囲んだり、親戚で会食したり、あるいは班で給食を食べたりするイメージの言葉です。

共食は、通常は、よりご飯が美味しくなるものだといわれます。一人で食べるよりみんなで食べた方が美味しいという感覚です。ただ、私は共食が本当にできなかったですし、今も少し抵抗があるように思います。

上記URLの回にも書きましたが、そもそも私が発達障がいと出会ったきっかけも、共食(給食)がうまくいかなかったからでした。

共食ができないのは学校以外でもです。親戚との会食の場でも、中学校に上がるくらいまでは何も食べられませんでした。ようやく食べられるようになった頃に、親戚のおじさんから「ダニエル君(私)は、人前ではご飯食べへんのかと思ってた」と言われたくらいです。

今では飲み会や会合に行くことを生きがいにしているタイプになりましたが、それでもふとした時に共食の苦手さを覚えます。うまく言語化ができませんが、慣れてない人と食卓を囲むと身体が硬直して箸を持つ手が固まるのです。取り皿に取って食べるタイプだと尚更、その傾向があります。またこの辺のことは、別の回で言語化を試みようと思います。

とにかく、給食の場合は、みんなでお話を回しながら、時間内に、自分の分を食べきるというのが私には難しすぎたのだと思います。お話にも気を遣わなければならない、時間の制約もある、それでいて食べるという器用なことが小学生の頃は特にできなかったのです。

ただ幸運なことに、6年生で完食できる機会も増えたので、給食の完食もなんとか達成できました。

3.こだわり

食に関して苦手が多い私でしたが、定期的に突如としたマイブームが訪れることがありました。4歳くらいの時は、なぜかスィーティという果物にハマりました。今では年に一回も食べないので、なぜこの果物にハマったのか推測もできませんが4歳の時は大好物と化しました。ガリガリの我が子が自ら進んで食べたいと思える食べ物ができたことを喜んだ母は、毎日毎日、来る日も来る日もスィーティを買い与えてくれました。三食のご飯(特に昼と夜)は少食でしたが、スィーティは完食していました。もしかしたら、そんな果物を丸々与えるから食事が進まないだと思う人もいたかもしれませんが、母からすればこの子が喜んで食べられるものがあるならそれで栄養分をとればいいという感覚で、私のこだわりに応えてくれました。どれくらい食べ続けたか覚えていませんが、ある時からスィーティに飽きが生まれパタっと食べなくなりました。

こだわりが強い私vs与え続ける母の戦いは、
与え続ける母に軍配が上がりました。

ある時は、白桃ゼリーにハマりました。これもまた、ゼリーなんて丸々一つ食べるからお腹が膨れてしまうんだという人もいると思いますが、父も母も一生懸命白桃ゼリーを買い貯めてくれました。休日に父の車で買い物に行った時など、冷蔵庫に大量の白桃ゼリーが入りました。白ご飯は完食できなくとも、一日に一個の白桃ゼリーは美味しく完食しました。しかし、このブームもたい焼きブームやタピオカブーム同様に下火になる日がやってきました。我が家には、残った白桃ゼリーをどうするかという議題がおりてきました。

またある時は、抹茶風味の青汁にハマったこともありました。これはだいぶ大きくなってからの話です。青汁ならば、身体にも良いしちょうど良いということで、両親が箱で購入してくれました。これもしばらくの間は毎朝飲み続け、何度も追加で購入しましたが、永遠には続きませんでした。またもや、

こだわりが強い私vs買い与え続ける両親の戦いは、両親の勝ちとなりました。
その後、青汁は、父の健康を支えました。

4.おわりに

この投稿をしてみて、改めて父・母・姉に感謝します。食にしても、こだわりが強く、見方によってはわがままな私を矯正することなく、のんびり大らかに育ててくれました。おかげさまで、今では美味しくバランスよくご飯が食べられます。これもひとえに、あれこれと指導をすることなく、私が好きといったものは飽きるまで与え続けてくれたおかげです。そのおかげで、食へのイメージを悪くせずに済んだのだと思います。

参考になるかは分かりませんが、我が家はこんな感じでした。

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