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【小学生時代の思い出】大丈夫な人間になろう


1.登校拒否だった時代にかけられる「大丈夫?」

最近、あまり小学生時代ネタを書いていませんでしたが、私の小学生時代は高学年頃から登校拒否が強くなり、保健室登校がやっとというものでした。
以下に参考記事を貼らせていただきます。

さて、なぜ登校拒否に陥ったのか、簡単に振り返らせていただきます。ずばり、原因は「心と身体のバランスを崩したから」でした。成長期と思春期に差し掛かり、心ではみんなと同じように教室で頑張りたいと思っているのに、身体が自律神経失調症のようになってしまい、学校や教室に行こうとするとめまいや吐き気といった体調不良に悩まされるようになりました。

学校に行っても、そのような状態なので、調子が悪目の時は保健室でグッタリとしていました。保健室で寝込んでいると、定期的に担任の先生が様子を伺いに来てくれるのですが、その時に担任の先生が口にする決まり文句に内心不快感を覚えていました。

「大丈夫?」

と保健室まで様子を見にきてくださった先生は、当の私を見て必ずそう口にされます。この漢字三文字「大丈夫」に不快感を覚えていました。

なぜなら、その時の私はベットでうずくまっていたわけなので、「大丈夫じゃないことは見たら分かるでしょう」という風に思ってしまっていたからです。今思えば、担任の先生はクラス運営などお忙しい中を縫うように保健室まで脚を運んでくださり、苦しんでいる私を前にして優しさで「大丈夫?」と口にされたわけなので、私が不快感を覚えるのも失礼で無礼な話です。担任の優しさに不快感をもっていた当時の自分が嫌になります。

ただ、私も教員側になった時、苦しそうな生徒さんを前にすると簡単に「大丈夫?」と口にしてしまうのですが、大丈夫じゃない状況の側にとっては、そのような声掛けはかえってマイナスなことがあります。頑張っている人に「頑張れ」と声掛けをするのを躊躇うように、どう見ても大丈夫じゃなさそうな人に「大丈夫?」と聞くのも、ひっかかりを覚えるものだと思いました。

2.「大丈夫」の語源

ところで、何気なく使う「大丈夫」という言葉ですが、ここでルーツをたどってみたいと思います。日本において日常生活で使われる「大丈夫」は人や物の状態を表す言葉であり、簡単に意味を書くと「あぶなげなく安心できるさま」を意味します。この意味で用いられる「大丈夫」は、国文法的な分類をすると形容動詞にあてはまります。つまり、私たちが何気なく口にしている「大丈夫」という言葉は、形容動詞のグループの単語だったのです。

しかし、「大丈夫」という単語には、形容動詞だけでなく名詞のはたらきもあります。名詞のはたらきの「大丈夫」は、意味が少し変わって、「立派な人」という言葉になります。

私たちが使用する「大丈夫」は、前者の形容動詞の方(あぶなげなく安心できるさま)だと思いますが、語源は後者の名詞の方(立派な人)だそうです。

ここからは、その「立派な人」というものの正体についてより考察していきたいと思います。

3.儒学の世界の「大丈夫」

中国で始まった儒学の世界の中において、「大丈夫」と呼ばれる立派な人とはどのような人のことなのでしょうか。それは、「浩然の気」を自然体で養おうとする道徳的な人のことを指すそうです。では、「浩然の気」とはどのようなものなのでしょうか。「浩然の気」について、清水書院の『用語集倫理』には次のように書かれています。

目の前の名利にとらわれず、自分の内なる四端※①の心や仁義の良心を養い育ててゆこうとする人が帯びる、力強くもおおらかな気概。

※①四端…仁・義・礼・智の四徳(心の拡充によって得られる4つの徳)

『用語集倫理』(清水書院)

ここまでを整理してみます。

目の前の名誉や利益にとらわれず、心の内にある仁や義などの徳を育もうとする人は、「浩然の気」という力強くもおおらかな気概を獲得することができ、その「浩然の気」というものを自然体で養おうとする人が「大丈夫」と呼ばれる存在になるということです。つまり、間を飛ばしていうと、

「大丈夫な人というのは、目の前の名利よりも内なる道徳心の養成に意識を向ける人」ということになります。

4.私は「大丈夫」なのか

ここで、話を小学生の頃に戻したいと思います。小学生の私にかけられていた「大丈夫?」の言葉は、もちろん2・3で書いたような「立派な人」や儒学的な意味としてではなかったでしょう。しかし、自律神経失調症で保健室登校に陥り苦しんでいた小学生の頃の私にこそ、3で書いたような儒学的な「大丈夫」はふさわしい言葉なように思えます。

10歳から15歳くらいにかけての私は、毎日をどうやり過ごすかで精一杯なほど、追い詰められていました。しかし、自分で言うのもなんですが、当時の私は自分を楽な道に向けたり、安パイな選択肢を選んだりすることなく、いつも真剣に目の前の障壁と向き合い、もがいていました。仁や義といった精神も大切にしていたと思います。今の自分よりも、登校拒否や保健室登校・別室登校で苦しんでいた頃の私は、「大丈夫」な存在と宣言してもよい資格をもっていたように思います。

苦しいときこそ、「大丈夫」な存在に近づけるチャンスだと考え、前向きにそして大局観をもって、物事に挑みたいです。



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