
【未来を見つめて】おじいちゃん ありがとう
2025年1月30日、おじいちゃんが天国に旅立って14年が経ったことを表します。おじいちゃんは、2011年3月11日の地震を知ることなく、79歳でこの世を去りました。【無名人インタビュー】でも話させていただきましたが、私にとってはおじいちゃんこそが、インタビューしたかったくらいの素敵な無名人でしたので、ここで活躍ぶりを書かせていただきます。
なお、本当は「祖父」と表記すべきなのかもしれませんが、響きの勝手なこだわりから「おじいちゃん」と書かせていただきます。
1.略歴① 進学校に通えたはずたった
1931年(昭和6年)、兵庫県に長男として生まれました。私の家は、明治時代ぐらいまでは裕福な部類だったようで、我が家には曾祖父やもっと先祖の方が現代の金銭感覚で1枚25万円程度かけて撮影した写真が残っています。また、江戸時代の巻物などもよく分からないのですが存在します。
ところが、おじいちゃんが生まれた時代ぐらいには、失敗が重なり、豊かさは下降していました。また、おじいちゃんは10代の間に父親を病で亡くし、さらにはおじいちゃんの生まれた年が満州事変のあった年からも分かるように、戦争の影響もあって生活は厳しかったようです。そんな中、当時の風潮的に、長男・跡継ぎとしておじいちゃんは一家のために働いていたそうです。
ただ、おじいちゃんは本当は学問が大好きで勉強がしたかったそうです。また、成績も優秀だったそうで、大阪で有名な進学校である北野高校を受験できるくらい勉強ができたそうですが、家のことを考えて地元の定時制に進みます。ちなみに、北野高校を受けるレベルだったということは本人談なので、よく息子たち(私の父)からは信憑性に欠けると言われています。
とはいえ、おじいちゃんが勉強家だったことは確かなようで、大人になってからもよく図書館に通い詰めていたそうですし、歴史や哲学のことなど博学だったそうです。そういえば、定年退職後は、韓国語(ハングル)を学んでいたそうで、亡くなった後、部屋を整理していると韓国語講座のテキストとおじいちゃんが書き取ったノートが出てきました。
2.略歴② 東ドイツに入国した男
定時制高校を出たおじいちゃんは、60歳まである会社で勤め上げます。そこでは、工場勤務、エンジニア、企画開発、など多岐にわたって仕事をしていたそうです。
おじいちゃんの一番の自慢は、ある製品開発に関して、特許取得に関わっていたことです。ただ、おじいちゃんが個人的に特許を申請したわけではなく、会社の一員として取得したものなので、特許にどれほど関わったのかの証拠はなく、家族からは「おじいちゃんのいつものホラ吹きだ」と流されていました。ところが、死後、タンスを整理してみると、確かにおじいちゃんの名前が書いてある特許の用紙が出てきました。おじいちゃん、ごめんなさい。
仕事に誇りをもつおじいちゃんですが、多趣味な人でもありました。社交ダンス、洋楽、洋画などなどは20代の時には熱中していたようです。とにかく、洋風なものが昔から好きだったようです。
欧米文化に興味があったことが影響したのかどうかは分かりませんが、結婚して子どもが生まれてからは、エンジニアの技術を諸外国に伝えるために海外出張によく行っていたそうです。スペイン、フランス、ドイツ…、そういえば、ドイツは西ドイツ(資本主義)と東ドイツ(社会主義)に分かれていた時代のようで、日本人は西ドイツには赴けても、東ドイツには簡単に入れなかったそうです。しかし、おじいちゃんは仕事の都合なので、ベルリンの壁の向こうの東ドイツにも入国しているようです。
海外に行くと、よりその文化に惹かれることになるのか、帰国後もおしゃれな生活をしていました。これは海外の影響なのか何なのか分かりませんが、ゆで卵一つをとっても、卵を割る機械から盛り付ける皿まで、さまざまに用意していました。よくおじいちゃんの家に泊まった人は、まるでホテルの朝ごはんのようだと言っていたそうです。
3.略歴③ マイホームパパの先駆け
おじいちゃん以外の人にも影響が及ぶので、書きにくいのですが、仕事一筋兼道楽者というような紹介をしてきた割に、かなりのマイホームパパでもあったようです。
昭和40年代、まだ運動会や参観日に来るのは母親だけという時代に、おじいちゃんは有給休暇をとって、カメラをぶら下げて子どもの様子を観に来ていたそうです。さらには、隣の隣町ぐらいに住んでいたおじいちゃんのお母さんも連れて、盛大に子どもの活躍を応援していたそうです。おかげで、我が家には、父や叔父が運動会で走っている写真がたくさん残っています。
そういえば、私の父は昭和30年代生まれですが、その時代に、赤ちゃんの産声を録音したいからといって高価な録音機を購入していたそうです。
おばあちゃん(奥さん)のことを第一に考える人だったのだとも思います。愛情たっぷりなお父さんだったのだと、孫の私は推測します。
4.略歴④ 病気との闘い
60歳で定年退職、いよいよゆっくりできる、そして趣味や学問に没頭できるという時に、おじいちゃんは倒れました。心筋梗塞でした。この心筋梗塞からおじいちゃんは、度重なる病魔に襲われました。順番に誤りがあるかもしれまんせんが、脳梗塞、大腸がんなどで何度も身体にメスが入りました。
72歳頃から、認知の面にも不安が生じました。記憶を辿ると、おじいちゃんが70歳の時、私は小学校1年生だったのですが、何度も何度も
ダニエルちゃん(私)、何年生になったんや?
1年生!
そうか、ピカピカの1年生やん!
というやり取りを繰り広げるようになり、物忘れが激しくなったと身内で心配はしていました。ただ、単なる物忘れではなく、アルツハイマーであることが72歳ぐらいの時にははっきり分かりました。最期の7年前後は、アルツハイマーと付き合って生活していたということです。
長年アルツハイマーを患いながらも、おじいちゃんは妻や子や孫や嫁の顔も名前もよく覚えていました。また、アルツハイマーでも往年と変わらぬ親父ギャグを飛ばしていました。
亡くなる30日ほど前、お正月で集まった時に、
私の母(おじいちゃんから見たお嫁さん)が
寒くないですか? と聞くと
懐は寒い と返しました。
私の叔父(おじいちゃんから見た息子)が家に入ると
お年玉はー?
と手を差し出してニヤリと笑いました。
これがおじいちゃんと過ごす最後のお正月となりました。
2011年1月30日のお昼、私は父とおじいちゃんの家を訪ねました。もう食欲もなく、買っていったお寿司もほとんど食べることができませんでした。
18時頃、帰宅することにしました。いつものようにおじいちゃんの手を握って「また来るからね」と言ったところ、おじいちゃんは言いました。
あんたが一番頼りになるんや。元気でな。
びっくりしました。顔と名前は覚えていてくれているとはいえ、アルツハイマーの影響もあって昔よりかなり丸みを帯びていたおじいちゃんが、突然昔のおじいちゃんに戻ったからです。その発言のおじいちゃんの目は鋭く、手にも力が入っていて、言葉にも魂がこもっていました。
父と祖母と3人で驚きながら、別れ、私と父が帰りの電車に乗っている最中、おじいちゃんは倒れました。父は大急ぎで引き返し、祖母と父も一緒に救急車に乗りました。
応急処置で一時、なんとか息を吹き返しました。搬送先の病院に叔父一家も駆けつけました。その数分、数時間後、おじいちゃんはその生涯に幕を閉ざしました。
みんながお別れできるように、最後まで待っていてくれてありがとう。
5.未来を見つめて
おじいちゃんが亡くなって、悲しさを引きずりながら、私たちは前を向いて、部屋の整理をしました。すると、大きなダンボール箱のようなものがいくつか出てきました。どうやら、写真などの孫の記録を個別に保管しておいてくれていたようです。写真だけでなく、幼稚園の運動会のパンフレットや幼い頃の孫が描いた絵も入っていました。さらに、マメなおじいちゃんは単に、写真を保管するだけでなく、一枚一枚に日付や出来事、その時の想いなどを添えていました。



「未来を見つめて」、これは、私の1歳の誕生日に親戚でお祝いしてもらった時の集合写真に書かれているものです。
表面には、曾祖母、祖母、祖父、叔母(母方)とおじいちゃん、祖母(父方)と私たち一家のみんなが映っています。梅田のスカイビルの屋上で、みんなでカメラを向いているのですが、眩しかったのかみんな険しい顔をしています。その写真におじいちゃんが添えてくれた言葉が「未来を見つめて」なのです。みんな、未来は険しいものだと悟っていたということなのでしょうか。ちなみに、その当のおじいちゃんだけはピースサインに満面の笑みで映っています。
おじいちゃんは未来は明るいと信じていたのかな。おじいちゃんが明るいと信じているなら、僕も未来は明るいと信じて突き進むから天国で見守っていてね。
身内の話を最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます
1/30の時点でより多くの方に読んでいただけると嬉しいと勝手ながら想い、1/29に投稿しました。
もちろん、その日を過ぎても、こんな人間がいたのだと知っていただけることができれば、おじいちゃん孝行になるのかなと私は思っています。