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堕落を肯定しろ

主観が輝く社会( https://note.mu/dakutomedhi/n/n6f95fc3187fa )の構想をもとに始まった読書会。初回から大分間が空いて、先日2回目をおこなった。

テーマ本は坂口安吾の「堕落論」。「半年のうちに世相は変わった。」という文で始まり、戦中から戦後にかけての人々が秩序から解き放たれたすがたを堕落として、それを美しいと、そして人間本来の姿であるという肯定的に捉えた、その当時としては革新的であるとみられる評論文である。

人間の本来の姿は堕落である。それが美しい。そういった性悪説は僕たちが生きる上でも十分適応できるということに会の話は流れた。堕落というのは、そこになにか自分を確立してくれる、縛ってくれる規範や基準から解き放たれたときのことを言えるだろう。安吾の提示した考えを参考にすれば、私たちが共同体の秩序や、何か人間関係のわずらわしさに押しつぶされ、そこで抗ったり、逃げたりするのも、当然ではないか。私たちの原書状態が堕落であるのならば、結局その堕落を縛るものに対して抵抗したり、それから逃げたりするのは当然のことなのだ。そうして、堕落しているうちに何かをみつけられたら儲けものなのである。

そして、私たちは、色々な場面で堕落を恐れすぎている。もっと堕落を肯定して生きていくことが、彩り豊かな人生を生きることができるのではないかという風な結論に達した。

その一方で、文で安吾が言っていたように、人間は堕落が美しい姿でありながらも、堕落に耐えられないというジレンマを抱えていることも話題に上った。それもそのはずである、堕落を律する規範がなければそれはよく言われる「万人の万人に対する闘争」状態であり、アナーキズムであり、その日の食べるやその日の命の防衛に努めなくてはならない。堕落が美しい姿でありながら、堕落を律する規範がなければ、堕落したところで人間自体が失われてしまうのである。

しかし、上にあげたようなものはあくまで反実仮想のマクロレベルでの考察であり、現に法治国家にいる私たちがこの堕落論に汎用性を持たせようとするならば、人間関係とか、個々の人生といったミクロレベルのものになるだろう。そこでの堕落を肯定的に捉えて、原初状態として美しいと捉えて生きていけばよいのだ。

堕落を肯定しろ。この考えを私たちに提示した安吾の尊さを述べて、この文章を締めたいと思う。

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ダクト飯
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