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ペトラ遺跡(ヨルダン) - 1983年9月25,26日

タイトル写真は同年9月25日, 筆者撮影。両側の大きな岩の塊を抜けるとこれ。

この女性は筆者の知り合い ... だったような(笑)。 https://youtu.be/Dbm8ZxIy98I

ではでは, 自分で撮った動画, じゃなくて 写真を。

ペトラ遺跡, 1983年9月25-26日(写真7枚 および 旅日記) 〜 流石に夜空の写真は撮れてないけれど, あの晩見た満天の星が, これまでの60年余の人生で見てきた星空のなかで正真正銘, 最も美しい星空だった! 

以下の ペトラ「ざっくり」説明の下に, 1983年9月25日に筆者がペトラで撮った遺跡等の写真 7枚と, 25日と26日の旅日記約7ページ分(を撮った写真 4枚)掲載。

ペトラ についてウィキペディアなど参考にざくっとまとめると ... ペトラは現代のヨルダンにある世界的に有名な古代都市の遺跡。死海とアカバ湾の間の渓谷の中にある。「ペトラ」という言葉はギリシャ語で「崖」を意味するが, ここはもともと自然が作った要塞の如き地形となっているうえ, 西方にガザ(パレスチナの一部, 現在 1948年「建国」のイスラエルが封鎖中), 北方にダマスカス(現代のシリア・アラブ共和国の首都になっている都市), そして紅海にも近く, 古代から民族や文明が交じり合う「交通」の要衝の地でもあった。遅くとも紀元前1200年頃から人間が住んでいたもよう。紀元前1世紀から紀元後1, 2世紀辺りまでナバテア人(古代の遊牧民族, アラブの一部族と考えられているが ナバテア王国を作って一時期権勢を誇った)の都だった頃に一番栄えていたとされるが, その時期, 紀元前60年代からローマの支配下におかれるようになり(自治は認められたが税が課され, またローマ風の建築物が造られるようになった), 紀元後106年には完全にローマ帝国の属国(同帝国のアラビア属州)となった。その後, 363年にはガリラヤ地震によって建物の多くが崩壊し, 水路網など都市のインフラが破壊される事態に及んだ。さらに300年後の紀元663年になると, ペトラは当時の新興宗教の信徒たちの勢力, イスラーム帝国によって征服され, 以降, 主要な通商路から外れるとともに次第に衰退の道を辿ることになった(さらに80年ほど後, 749年に再びガリラヤ地震が起きて大きな被害を被ったことを受け, ナバテア人はペトラを最終的に放棄)。

なお, ペトラ遺跡の発掘は20世紀初頭に始まった。1985年12月6日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されているが, 発掘は2021年の今現在も続けられており, 依然として全容の半分も明らかになっていない(2014年の時点で85%未発掘)。

ではでは, 1983年9月25日, 26日の旅日記 および 同年9月25日にペトラで撮影した写真を。

(旅日記 1/4) D はヨルダンの通貨, ディナール。

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写真 1/7

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写真 2/7

この峡谷を通って進んでいくと, 次の写真 3/7 にある通り, エル・カズネと呼ばれる宝物殿(もしくは「神殿」)が その姿を現わす。

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写真 3/7 エル・カズネ。旅日記には「神殿」と書いているが, あらためて調べると,「神殿」という表記も見受けられるものの, 一般的には「宝物殿」とされているもよう(エジプトのファラオの宝物が隠されているという言い伝えがあったものの, 遺跡として発見・発掘された際には既に内部に何も残っていなかったため, 神殿だったのか, 王の墓だったのか, その用途も明らかになっていない。大きさは 高さ約40m, 幅約25m ある。古代ギリシャ建築の影響を受けたとされるこの巨大な宝物殿(神殿)が建設されたのは, 紀元前30年から9年の間と考えられている。

近代・現代の技術など全く無い時代, 今から2000年以上前の時代に, いかにして渓谷の崖を削り, どうやってこんな巨大な建造物を造ることができたのか。不思議。

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本章の後段に載せる 旅日記 4/4 から引用すると,

エル・カズネの神殿のは ことごとく 首から上が とれている。偶像崇拝を嫌うモスレムがやったのだろう。「芸術」として認めるよりも やはり宗教か?

「芸術」というか, あるいは人類の歴史の遺産, 人類史上極めて重要な建造物の価値を認めるよりも, 宗教の教えを厳格に守ることが優先されるのか?(とはいえ, この偶像破壊は一体いつ頃の時代に為されたものなのか, ということは一定程度考慮すべき点だろうけれども)。

旅日記の殴り書きメモからの引用だから言葉足らずではあるけれど, 要するに「モスレム」(当時はこの表記が一般的だったと思うが, 今は普通 ムスリム と表記, つまりイスラーム教徒)の宗教上の価値観ごときもの, イスラームの教えから来ているわけだけれど, 現代でもそれは起き得るもの。現代の場合は大抵, 原理主義者という条件付きにはなるのだろうが, しかし宗教の影響であることは確か(2001年のターリバーンによるアフガニスタン・バーミヤン渓谷の仏像の破壊, 2015年から2017年にかけての IS「イスラム国」によるシリア・パルミラ遺跡の破壊など; 後者パルミラは次章にリンクを付すパルミラ 旅 note もご参照を)。

エル・カズネの巨大さは上掲の筆者の写真に加え, 例えば以下のプロの写真(PCの大きなディスプレイ上でクリックして見ると効果大)で更に想像しやすくなる。

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写真の出典は本章の最後で。以降は再び, アマチュア「放浪写真家」(筆者, 笑)による, 1983年9月25日撮影の写真。

写真 4/7 王家の墓

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写真 5/7 原始の時代の地形そのままの如く見える, ペトラ遺跡がある一帯

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写真 6/7 お世話になったベドウィン一家のお母さん, パンを焼く準備中。

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写真 7/7 ベドウィン一家の子供。子供はほんと, 何処で見かけても愛らしい。

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(旅日記 2/4

(割礼, とりわけ女子のその風習 FGM は, もうなくなっていてほしい。) 

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これをもし「停滞」というのなら, 何が彼らを「停滞」させているのか。

さて, 厳密に言うと, 寝た場所はテントではない。テントの中では寝ていない。ベドティンのテントの脇で, シュラフに入って寝た, 言わば野宿(当時持っていたガイドブックには ペトラではサソリが出るので注意!なんて書いてあったのだが)。

だから仰向けに横になっていれば, 真上は夜空。空は掛け値なく現代の「文明」世界の街では想像しがたいほどの数の星で, 完全に埋め尽くされているように見えた。いや, 完全に埋め尽くされるなんてことは有り得ないのだが, そのくらいに感じられるほど, 空を遮るものが何もない, 広々とした夜空に見える星の数は, 尋常じゃなかった。正真正銘の, 文字通りの,「満天の星」。

暗くなって星が出てくる。月明かりはまだなく, ものすごい星の数。天の川もよく見えた。
夜中に目覚めて 空を見上げると きれいな月。足の方(東側)の岩山のところに オリオン座
何度か目覚めた。当たり前だが, そのたびに 月とオリオン座 の位置が変わる。月明かりでわりと明るい。まわりの風景といい, どこか原始の世界みたい。月に照らされた岩山も また昼間とは別の姿

(旅日記 3/4) 以下の旅日記写真, 上の頁部分は無視。これを載せないと下の頁の下部にある「上のページ見よ」のメモが意味不明になってしまうので載せたけれど, でもそもそも全部乱雑な抹消線みたいなもので上から消してある(笑)。パキスタンなど後に行く国や地域の旅人参考情報を書いてあったところ, 後日チェックしながら消していったようだけど, 細かい経緯とかは流石に記憶にない。

その下の頁の上部より。

ペトラはすごい!(風景も遺跡も。そしてベドウィンがいる)(昔のままのベドウィンではないだろうが)
2000年の昔, 当時の文明人ナバテア人がいたのですな。

そりゃそうだよなぁ, もちろん, 「昔のままのベドウィンではない」。ただ, ナバテア人ももともと遊牧民族だったのであり, 現代においては彼らはアラブの一部族と見做されているということだから, なんというかあの地に「現代」のベドウィンが住んでいるということに妙な感慨を覚えたのだった。で, 「現代」の方の後者は紀元7世紀に生まれた宗教であるイスラームの信徒になっていて, もっと昔, 遥か古(いにしえ)の時代の方の前者は全く異なる神を信じ, おそらくは多神教の信徒だったわけで。この2000年の長い歳月を, 一体どう捉えたらいいんだろうなぁとか。人類は「進歩」してる? まぁここで結論なんてものはないんだけど。

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最後に書いてある2行, 「朝便はペトラの聖なる神殿のなかで.. 」(笑)というのは勿論, 神殿の建造物に向けて, ではなくて, 「その辺りで」程度の意味。2年後に世界遺産登録された後はいろいろと「不便のないよう」設備など整えたんだろうけれど, 当時ベドウィンのところで一晩お世話になれば, 他にオプションはなかった。まぁ, 土に還したのだ!

(旅日記 4/4

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ペトラは 1983年9月26日の午後3時ごろバスで発ち, ヨルダンの最初の滞在地であった同国の首都アンマンに同6時半過ぎに着いた(戻った)。

途中, なかなか広大な砂漠。

お世話になったベドウィン一家は, 今はもうこの地から去っているかもしれない。去っているというより, 退去させられたというべきだろう。筆者がこの地を訪れた1983年から 2年後, 1985年にこのペトラの遺跡は世界遺産に登録されたわけだが, 以降, ユネスコとヨルダン政府はこの地(遺跡がある土地の中)に住むベドウィンの移住を進めてきたらしい。が, 移住を拒否しているベドウィンもいる, というリポートが掲載されているのが, 少し古くて2017年11月27日付だけど 以下の 参考 の 4) の記事。 

* なお, 次回 再びのアンマン 旅 note に写真を載せている1983年9月27日付旅日記に書かれているメモによると, ペトラに住んでいるベドウィンたちは暖かい季節はテントに寝泊まりしているが, 冬は洞窟の中で寝ているということだった(この箇所, 2021年9月28日に加筆)。  

参考

1) ウィキペディア

2) 世界遺産オンラインガイド

3) 上掲の筆者撮影の写真 3/7 と 写真 4/7 の間に掲載したプロの写真は, 以下のサイトから拝借したもの。

4) ペトラの遺跡とベドウィン

さてさて, 最後は例によって音楽を添え, さらに1983年から翌84年にかけての旅のここまでの振り返りを。

ペトラで見た究極の「満天の星」を思い出し, ペトラ や パルミラ や ポンペイ や フォロ・ロマーノ や 古代アテナイ の遺跡を振り返って, ピンク・フロイド Echoes ♫ 〜 歌詞和訳

以下, 上記, 章見出しを「読んで字の如し」♫

1) Echoes の後半では「眩いばかりに光り輝く何百万ものの大使」が訪れるのではあるけれど ♫

空を見上げたら, 宇宙を考えてしまう ♫

「2001年宇宙の旅」と Echoes のシンクロニシティ ♫

「ブレードランナー」から「2001年宇宙の旅」/ Echoes へと巡る旅

2) ペトラ は今日の本 note で取り上げた遺跡(これはエル・カズネ)

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3) パルミラ

以下, 古代都市パルミラと 2001年の911アメリカ同時多発テロは関係ないけれど, パルミラにいたのは 1983年の911, あの旅を通して 911テロを考えてみた。

4) ポンペイ

5) フォロ・ロマーノ

  *ヴァチカンは関係ない ♫

6) 古代アテナイ

これって, 2021年に開催した2020東京オリンピック「騒動」の際の note だけど, タイトル写真がいいかも ♫

Echoes (edited, short version) 〜 from Pink Floyd's fourth compilation album "Echoes: The Best of Pink Floyd" released on November 5, 2001 ♫

Echoes 〜 from Pink Floyd's sixth studio album "Meddle" released on October 31, 1971 ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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頭上 空高く アホウドリが (*1)
宙に舞い上がったまま静止して垂れ下がる
そして 揺れる波間の奥深く
珊瑚の洞窟の迷宮の中
遠く離れた潮の流れ 遥かな過去の残響が (*2)
砂地を越え 風に舞う柳の如くゆらゆらとやって来る (*3)
そして 何もかもが青々とした緑色を成し 海の底に (*4)

誰も我々を陸地に導かなかった
誰もが 何処にいるのか 何故そこにいるのかを 分かっていない
しかし何かが目覚めて動き出し 何かが試みを始める (*5)
そして 光に向かって 登り始めるのだ

通りすがりの見知らぬ者どうしが
偶然にも 一瞬その視線を交わす
実は私はあなたであり 私が見ているのは私自身なのだ
私はあなたの手を取り
この地の何処(いずこ)かに導き
自らができる最上のことは何なのか 理解することになるだろうか?

先に進むよう呼びかけるものなどいない
視線を落とすよう強いるものもいない
言葉を発するものはいないし 我々のように試みるものもいない
太陽の周りを飛ぶものなどいないのだ

雲ひとつない毎日 あなたは 覚醒した私の眼に舞い降りる
私に起き上がるよう 誘い(いざない) 鼓舞しながら
そして 壁に埋められた窓を通し
陽の光の翼に乗って差し込んでくるのは
眩い(まばゆい)ばかりに光り輝く何百万もの朝の大使 (*6)

私に子守唄を歌ってくれるものなどいない
私の目を閉じさせるものもいない
だから私は窓を大きく開け放ち
空の向こうのあなたに呼びかけるのだ

.............................................

注釈 *1~6 については, 本章 1) の Echoes 初出 note 投稿に。

1983年4月26日に日本を発って, ペトラ遺跡に辿り着くまでの 152日間(ソ連, ヨーロッパ諸国, トルコ, シリア, ヨルダンのアンマン・アカバまで)

1) 1983年4月26日 に日本を発って, ソ連から北欧を旅し, さらにヨーロッパを南下, イタリアの旅に至るまでの各国各都市の旅 note それぞれへのリンクは, 以下リンク先 note の 第3章以降に

2) ギリシャには 1983年7月11日 に入国, 8月9日にトルコ・イスタンブールに向かう列車でアテネを発つまでの ギリシャ30日の旅, アテネ 5編やサントリーニ島 1編などの note それぞれへのリンクは, 以下リンク先 note の 第2章に

3) トルコ 6編

イスタンブール番外編(タイトル写真は 1983年11月16日のイラン・イスラム共和国の首都テヘラン市街, 筆者撮影)

カッパドキア

アラブ世界に半歩, 足を踏み入れた アンタキヤ

4) シリア 3編 + 番外 2編

以下は番外の2編, そして パルミラ と ダマスカス, 計4編

思い切り番外編(笑)911誕生日記念 ♫

前章にも載せた パルミラ

ダマスカス

5) ヨルダン 〜 ペトラに行く前の アンマン と アカバ

ほとんど「自分用・備忘録」の如し .. になった, 今日の note の最終章 ♫

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