ダラムサラ(インド北部) 〜 チベット難民が住む標高2,000m超の山中で暮らした, 1983年12月の10日間
1983年4月26日に日本を発って, ソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル・エジプトを旅し, カイロからイスタンに飛んだ後は2度目のトルコを東へ東へ 〜 そのまま陸路イラン入国, さらにパキスタンを旅し, そして インド に入ってまずは シク教「黄金寺院」の街 アムリトサルに4泊5日滞在
なんだこの長尺な見出しは(笑)。まぁ映画じゃなくて週刊, 時には日刊「実話」なんだけど。ともあれ, インド入国までの旅(note リンク等)については前回の旅 note インド入国, まずは シク教「黄金寺院」の街 アムリトサル へ 〜 1983年11月29日-12月3日 の第1章に。
アムリトサルから北へ北へ, 上へ上へ 〜 ダラムサラ
ダラムサラ 8泊9日滞在(本 note タイトルにある「10日間」は概数だったのだ, 9ってナニだからね, ってわけでもないけど何となく)その最初の2日間分の旅日記。ダラムサラ滞在中の見聞・体験記は日記帳20ページ分ほどに亘って書かれているのだが, とりあえず今回は 1983年12月3日と4日の2日間分のみ掲載。残りはまたいつかの機会に別途掲載するかも。それか, 当時の「世界」の一端が見えてくる 1983-84年のユーラシア大陸 + アフリカ大陸の北東端「放浪」もどきの旅の全編, どこかで出版させてくれ(笑)。
まずは, 4泊5日滞在した アムリトサル を発って, 次の目的地 ダラムサラ に向かった, 1983年12月3日。
レナーテはほんと, 素敵な人だったなぁ(だから, というわけではないだろうが, 母はドイツ人, 父はインド人; インドに来た目的の一つは小さい頃に親の離婚が原因で離れ離れになったという父親を探す, 再会することだった)。それはともかく, 翌日 1983年12月4日には 更に高地に上がって, それからしばらくの 山小屋での日独バックパッカー共同生活を開始。
ここは 山の中。ヒマラヤも見え, すばらしい環境。
ほんと, マジで。眺めも空気も何もかも。実際の素晴らしさがそのままには伝わらないにしても, 少しは分かる, その写真を次々章にて掲載。見てくだされ。
この日の旅日記はあと, 以下の1ページ。ハッシッシなる言葉が出てくれけれど, 少なくとも当時, 現地では合法だったのだ, 念の為!日本でやりたいと思ったことは一度もないし, 言うまでもなく日本でやったことなど一度もないのだ, 念の為!
さてさて, 次章は本 note 第3章なのに「前説」で, その次の章には当時 ダラムサラで撮った写真21枚とキャプション兼ねた思い出し記を掲載。
第3章なのに ダラムサラ旅 note 「前説」
その種明かしはつまり, ダラムサラ旅 note は去年のちょうど今日, 一度 note 投稿していて, その第1章 前説 を, 以下にそのまま掲載してしまうのだ。これでいいのだ, バカボンのパパなのだ(まぁふっと頭に浮かんだだけの言葉, 赤塚不二夫大先生のあの漫画にはガキの頃お世話になったからなぁ!)。ただし, 文中の note リンクに関しては, その後の note を少し加えました。
1年前に書いたものなので, 言わずもがな, 「37年前」は「38年前」と読むなど, その種の読み替えをお願い申し上げまする!
タイトル上の写真は、37年前の今日、1983年12月10日に、インドのダラムサラで撮った、筆者(右から 4番目)とチベット仏教の僧侶たち(僧侶および修行僧と言うべきかな)の写真。
タイトルは色々とアバウト(和製英語、というかもはや日本語)。ウィキペディア的に言えば、ダラムサラとはインド北西部、ヒマーチャル・プラデーシュ州(この州はその東側で略称「中国」のチベット自治区と接する)にある都市ダラムシャーラーの一角にあるチベット亡命社会の中心地(ダライ・ラマ14世も此処に居住)。つまり、1950年代後半のチベット動乱を弾圧した中国の暴力支配から逃れたチベット難民の、その多くが住むところ。筆者が宿泊していたのは人々が普通に住んでいるところから更に登ったところにある、山中の山小屋みたいなところなのだが、まぁしかしこれもダラムサラのたぶん一部と言っていいのだろうし、何処にいたのかと言えば「ダラムサラにいた」としか言いようがないのではあると思う。標高に関しては文字通り(日本語で言うところの)アバウトであり、あ、これは英語で言っても一応、about 2,000m と言っていいのか。要するにテキトー。ダラムサラは標高 1,457m ということになっているが、筆者がいたところはアッパーダラムサラと呼ばれるところで、当時の日記を見ると「マクロドガンジに降り、ホテルのシャワーを借りに行ったのだが」(ママ)といった記述があり、再びウィキペディアを引っ張り出すと、その「マクロード・ガンジはダラムシャーラーの郊外の標高2,082mの山間にある」(マクロード・ガンジ McLeod Ganj というのは、ダラムサラの中で亡命チベット人の特に多数が暮らしている地区)。だから、筆者がいた場所は、それ以上に高い高地だったということになるはず。よって、「アバウト」2,000m超。
もう一つのアバウト。あっとこれも意外と英語の about に置き換えてもほぼ OK だったなぁ。つまり、アバウトに言って about, ワケ分からん(笑)。要は、ダラムサラにいたのは約10日間, about 10 days, 正確に言うと 8泊9日だった。
そして、更に細かく言うと、そのうち最初の 1泊はマクロード・ガンジの中心部に位置する宿(いま宿の名でググったらそう書いてあった)に泊まったもので、残りの 7泊8日間はそこから更に登ったところの山中の山小屋に滞在したのだった。
筆者が日本を発ったのは、1983年4月26日。バックパック一つ、横浜港をフェリーで発ち、1960年911にこの世に生を受けた筆者の人生の初の外国は今や存在しないソヴィエト連邦、現在のロシアとなった。そしてハバロフスクに 1泊、途中イルクーツクにも 1泊しつつシベリア鉄道で西を目指し、モスクワ 2泊の後はフィンランドへ。それから先は 2ヶ月間かけて北欧からギリシャまでヨーロッパを南下、さらに真夏のアテネと地中海の島サントリーニを合わせてギリシャに 1ヶ月滞在した後、陸路トルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナとイスラエル、そして当時は今現在のようなイスラエルによる違法な軍事封鎖でなくイスラエルによる同様に違法な軍事占領下にあったガザ地区(違法な軍事占領と言えば東エルサレム・ヨルダン川西岸地区は今も、そしていずれにしても言うまでもなくパレスチナの一部)から陸路エジプト、カイロへ。カイロに 1週間ほどいた後は、その旅で初めて飛行機を使ってトルコのイスタンブールに戻り、以降は再び陸路、東へ東へと進む、再びのトルコの旅。その後、そのまま陸路でイラン(イラン・イラク戦争中だったが戦争は両国の国境地帯でやっていて、旅行者としてトルコとの国境を通過してイランに入国することは可能だった)、そしてパキスタンを旅し、同年(長いな、ここまで、同年というのは 1983年!)11月29日にパキスタンのラホールを発って当然ながら陸路インドに入国、まずはシク教の聖地アムリトサルに 4泊5日。
そして、12月3日にアムリトサルをバスで発ち、7時間以上かかってダラムサラに着いた時は、既に辺りは真っ暗だった。当時の日記によれば、アムリトサルからダラムサラに向かうバスは 1日2本 のみで、その後発、昼12時20分発のバスに乗車したとある。因みに最近はどうだか知らないが(今もわりとそういう面はあるだろうが)、インドでは列車が時刻表通りに来ることは極めて珍しかったが(ひどい時は何時間でも遅れる)、バスはまぁまぁ驚くほど遅れるということでもなかったと思う。
そういうわけで、真っ暗になっていた時に着いたダラムサラの最初の晩は、チベット族の人たちがたくさん暮らしている街中の宿に泊まり、翌日、更に登ったところ、山中の山小屋に居を移して(山小屋、山小屋と書いているが、かなりの安宿とはいえレッキとした宿)、そこに 1週間、7泊8日間滞在しながら、山の中を歩いたり、ヒマラヤの一角の景色を眺めたり、街中に降りて博物館に行ったり、レストランで食べたり、チベット族の女性たちがカーペットを織る様子を見物したり、チベット仏教の僧院に行ったり、修行僧たちのところを訪ねたりしていた。
1983年から 1984年にかけてのその旅は基本「一人旅」だったけれど、ダラムサラ では筆者を含む 4人のバックパッカーで同宿していた。旅の最中、国籍なんてあまり気にしなくなりつつも(しかし細かいこと言うと却って気になる時もあった)流石に「基本情報」的に、親しくなった旅人には「何処から来たの?」とか尋ねたりもしたわけだが(しかし例えばトルコのイスタンブールで会った旅人にそれを訊いてこれも例えばながら「インドからだよ」と応じる相手に "Oh, you came here from India, and where are you from?" と再び尋ねると "Italy" と答えが返ってくるなんてこともあるわけだが)、その 4人のうち半分、二人はドイツ人だった。
一人は、筆者がトルコから陸路イランに入った際に知り合い、イラン、パキスタンを一緒に旅して、更にインドに入ってからもアムリトサルとダラムサラまでの旅を共にしたドイツ人の青年。1960年生まれの筆者より若干若かったと記憶。もう一人は女性で、彼女の名前は当時の日記を捲らなくても言える、多分いつまでも忘れないだろう、レナーテ(フルネームで記憶しているけれど、「レナーテ」とファースト・ネームの方で呼んでいた)。
レナーテは筆者と同じ年齢だった。筆者の日記によれば当時 23歳。筆者もその旅の途中、1983年9月11日にシリアのパルミラで 23歳の誕生日を迎えていて、
だからまぁ同じか、ほぼ同じ歳だったことになる。彼女はパキスタンのラホール(だったと思う)から他の日本人男性バックパッカーと一緒で(イスラム圏は女性の一人旅は色んな意味で困難を伴うので、女性バックパッカーは便宜的に男性の相方を見つける例が少なくない)、その筆者以外の日本人バックパッカー(彼も同じ歳、彼は正真正銘、という言い方も妙だが、要するに日本的に言えば「同じ学年」の年齢だった)を含み、アムリトサルとダラムサラでは、ドイツ人男女2人、日本人の男2人、計4人で宿をとったのだった。
ダラムサラの後は、4人散り散りになって、つまりそれぞれ一人旅に戻ったのだが、因みにレナーテはお母さんがドイツ人で、お父さんはインド人、彼女の旅は幼い頃に別れてしまったインド人の父と再会するための旅でもあった。
レナーテ!
さて,
ダラムサラ 〜 ヒマラヤを拝み, チベット仏教の僧侶たちと親しみ, チベット難民の街を歩き ... 写真21枚とともにあの日々を思い出す
さてさて(って前章の最後にも「さて」と書いてたけれど), ここでまたしつこく昨年の今日 note 投稿したダラムサラ旅 note のリンクを貼って, その下にその第2章をそのまま掲載する(ただし note リンクを何点か加え), 当時撮った写真21枚と併せて。
長々と「前説」を書いたのに、そして当時の日記には実に色んなことが書いてあるのに、ここから先は写真中心になると思う。
書いていて何となく疲れてきたのだ。と言っても、心地よい疲れ。で、当時の出来事の細かいことは、また気が向いたら note に書こうと思う(あくまでも「気が向いたら」!)。
一言、この時の旅とは関係ない妙な「思い出し記」を書いておくと、筆者がチベット仏教というものの存在(だけ)を知ったのは、1972年6月から翌1973年6月にかけて(筆者にとっては小学校6年から中学1年にかけての時期だった)当時の「週刊少年マガジン」に連載されていた天才・奇才の漫画家・永井豪の作「デビルマン」(TVアニメ版の方でなくあくまで漫画版)を通じてだった。あのSF漫画、ある種のホラー漫画の傑作、基本は強いて言えばキリスト教における概念から拝借してきたと言えるデーモンやサタンなどが登場しながら、その壮大な物語の終盤の方でチベット仏教の僧侶たちまで出てくるのだ(「時代」を感じさせる表現だが、「チベット仏教」という言葉ではなく、今はほぼ使われなくなっている「ラマ教」という用語が使われていたと記憶している。ついでながら、ダラムサラを旅していた1983年当時の筆者の日記においても、「ラマ教」「ラマ僧」といった表記が目立つ。今は筆者も使わない言葉だけれど)。
因みに筆者、ダライ・ラマ14世の住居の前にある寺を訪ねてチベット仏教僧たちの修行の様子を見せてもらった際(1983年12月7日)、ダライ・ラマ本人に会おうとしたのだが(在宅中である限り、申し込めば基本的に個人でなく複数ごと一般接見してくれる)、会おうと思ったその日はたまたま都合がつかないとのことで「今日は駄目。2~3日後なら可能」との係官みたいな立場のところからの返答があって、結局、そこまでの拘りがあったわけでもなくその後 12月11日にダラムサラを発った筆者は、ダライ・ラマ本人に会うことはなかった。
というわけで(どういうわけだ?これは「禅問答」です、禅はチベット仏教ではないけれど、笑)、今日は以下、写真中心。
で、明日か明後日、今日のこの note 投稿の「前説」で触れ、以下の写真のキャプションの中でも少し触れる、同宿だったインド系ドイツ人女性の旅人、レナーテの思い出に纏わる note 投稿を、別途しようと思っている。
それは以下に掲載する note リンク4点のうち, 2番目のものだったような(その第4章だと思うので, 本 note 次章にこれも掲載してしまう)。他のは前後繋がりがあるので, まとめて掲載!
ではでは、ダラムサラで撮った写真 21枚と、そのうちの何枚かに思い切り短めのキャプションをば(いや、ところどころ長くなるかも)。
キャプションというのは普通は写真の下に置かれると思うけれども、以下では便宜的に各写真のそれぞれ上。
1) 泊まっていた山小屋から少し(たぶん!)歩いて撮った写真。ヒマラヤの一角が拝めるのだ。写真ではなくて、肉眼で見たら、泣けます(まぁ泣きはしなかったと思うけど、絶景!)。1983年12月6日撮影。
2) 街を眺める。
次から6枚は 1983年12月7日撮影。
3) チベット仏教の仏塔。仏舎利(釈迦の遺体・遺骨、またはその代替物、だからここでは当然ながら代替物 .. だよね?)を安置した仏教建築。卒塔婆、塔婆、塔、ストゥーパといった呼称は全てこれを指すわけだけれど、「ストゥーパ」はサンスクリット語由来の言葉で、仏教がインドから中国に伝来した古代、中国語に音訳されたのが「卒塔婆」。「塔婆」や「塔」はその略称で、日本にある五重塔などもこうした仏塔の一つ。チベット仏教では日本語のカタカナ表記すると「チョルテン」と言った呼ばれ方になると思う。
4) これはもちろん、お釈迦様 .. のカタチを彫った、いわゆる仏像。仏像はほんと、国によって、民族によって、宗派によってもかな、兎に角だいぶ趣が違う。
5) 再び、泊まっていた山小屋から少し(たぶん! .. 「しばらく」だったかも)歩いて撮った写真。
6) チベット仏教の僧侶たちの修行の様子(ダライ・ラマ14世の住居の前にある寺にて)。チベット仏教の「討論」。二人ずつペアになり、一方(立っている方)が質問し、手を打つ。そして、他方(日本語の言い方で言えば「座禅」している方)が答える。これを続ける。この「討論」、チベット語で何と言うのかまでは知らないが(ググって知ったかぶりすることは可能だけれど、素人が書いて素人が読むとまさしく俗語で言うところの「禅問答」みたいになるので控えます、笑)、禅宗における「禅問答」も源は同じだろうか。
7) 同上。真ん中に写っているやや背が高い人は白人僧。いや、肌の色などどうでもいいのだが、とにかく、欧米系の人。いちいち尋ねもしなかったので、欧米の「欧」なのか「米」なのか、あるいは中米もしくは南米の人なのか分からないけれども、後者も勿論あり得ないとは言えないが、当時の時代からしたらいわゆる「欧米」人だと思う。より正確を期すと、日記には「白人僧」としか書いてなくてそれ以上の詳細を残していないだけで、尋ねたかもしれないのだが、となると37年前のこと、流石に忘れた(笑)。これって読者から訊かれてもいないのに書いていて、ワケ分からん?「禅問答」みたいか。いや、禅問答もちゃんと尋ねる人と答える人がいてこその問答なので、このキャプション、禅問答ではない。こんなこと書いていてもキリないので、やめ(爆)。これは「自爆テロ」の「爆」ではなくて「自爆笑」の「爆」。仏教では普通(普通!)「自爆テロ」などしない(はず!)。
ごちゃごちゃ百済ない、あ、くだらないことを書いてしまったけれど(あ、百済は日本へ仏教を伝来してくれた朝鮮半島の国の名、百済がないと「くだらない」結果になってしまうくらい、百済は大切)、この写真のキャプション(長いな)の最後に真面目な一言。
見ているだけでも非常に面白い、実に興味深い、チベット仏教の僧たちの修行の様子だった。
8) チベット仏教僧たちの修行の様子を見た後、街に行って撮った写真。チベット族の御婦人や若い女性などが、カーペットを作っているところ。何人かは歌いながら仕事していた。苦役でなく、楽しんでやっている労働という感じで、好印象だった。
次から8枚は 1983年12月8日撮影。
9) ちょっとピンぼけ(筆者はロバート・キャパなのだ .. なことぁない)の写真だが、前章「前説」に書いた 4人、つまりドイツ人の青年、インド系ドイツ人の女性、日本人の男性、そして筆者(全員、バックパッカー)の計4人が 7泊8日した山小屋。
アムリトサルを発ってダラムサラに着いたのは 1983年12月3日の夜で、既に街は真っ暗、その日だけは街中の宿に泊まった。4人で一部屋取って、ドイツ人青年だけベッドに寝かせ、残る日本人の野郎 2人とインド系ドイツ人の女性レナーテの計 3人は床に雑魚寝した。レナーテは "This is my way" と言って笑っていた。
そして翌日、12月4日に、街から更に登ったところ、ヒマラヤの一角を拝める素晴らしい景色の山中に居を移したのだが、それがこの山小屋。
当時の日記を斜め読みすると、その「ダブルルームの空き部屋が 2つあった」ところを確保したもののようだ。
ドイツ人の二人が 4人一緒に一部屋取ることに拘ったので(まぁ女性はレナーテ一人だったし、誰がレナーテと同じ部屋になるのだ、という話も面倒くさかったかもしれない、それにレナーテ一人にしたら寂しいだろうし)、結局、片方の部屋だけ使って、4人一緒で同部屋にした。この山小屋のマネージャー(「因みに」程度の情報だけどチベット人でなくインド人だった)は「警察にダブルとか値段とかを登録していることが気になる」とかで、一部屋に 4人で泊まることが記録に残ることを嫌い、それを受け入れて、部屋は 2つ取り、その分のカネだけ払って(当然それはマネージャーの望むところだっただろうけれど)、実際には片方の部屋だけ使うということにした。ここに 7泊8日。
レナーテはドイツ人のバックパッカーだったが、父親はインド人。彼女が子どもの頃に両親は離婚し、親父さんは故郷の南インドに帰ってしまった。で、彼女は父親の当時の住所を知っていて、レナーテの「母国」ドイツ(当時はベルリンの壁の崩壊前、よって西ドイツ!)を発って中東を経由してインドまでやってきた旅は、単なる放浪の旅だけのものではなく、父親に会いに行く旅でもあった。ダラムサラに来る前のアムリトサルで撮った数枚の写真を載せた別の note 投稿の方で分かるけれど、実際、レナーテは東洋系の顔をした女性だった。
英語で話すときは "Maybe" が口癖だった。朝、顔を洗ってると 、笑いながら "Maybe you can lend me your towel" と言って近づいてきたレナーテの顔や、その時の彼女の声は今でも思い出せる。あのバックパックの海外「放浪」もどき旅で出会った女性バックパッカーで抜きん出て、最も印象に残っているレナーテ、ああ、懐かしい。
というわけで、レナーテへの郷愁については、明日か明後日あらためて note 投稿する、その中でまた(笑)。
「あらためて note 投稿する」件については, 本章の前段の方で触れた。
10) 写っているのは 4人のうちの筆者ではない方の日本人(まぁ顔はよく分からない、つまり個人が特定できるわけではないのでいいでしょう)。
というわけで、上の 9) の写真とこの写真の関係はどうなるのかな。タオルとか靴下とか干してあるし、泊まっていた宿(の一部?)と思えるのだが。当時の日記を精読すれば何か分かる可能性はあるものの、今日のところは謎のまま(笑)。
泊まっていたのは 10) の方だけで、9) は近くにあった別の山小屋だろうか。いや、違うはず。9) の写真の手前の空き地、あの辺で洗濯物を干したり、朝、顔を洗ったりしていたのを憶えている。そこでレナーテが毎日のように "Maybe you can lend me your towel" と話しかけてきたのは記憶に新しいのだ。「新しい」というか、37年も前の話なのだが、レナーテのその時の顔の表情も、声も、忘れられない、そのまんま頭の片隅に残っている。
要するにこれは、9) の写真の一部を別の角度から撮ったものだろうか。撮影者は間違いなく筆者自身なのだが、詳しいところ、思い出せない!
11)~16) 山小屋を出て、さらに高い方、山中を歩いた。暗くなる頃まで歩いて、その時に撮った写真。肉眼で見るともっと見事だったはずだが、今こうしてセピア色になってきたような写真で眺めても、当時見た素晴らしい景色を思い出せる気がする。
ここから 6枚はその時の写真。
次は,
1983年12月9日の撮影。
17) 街中のカーペット製作所、8) の写真を撮影したところを、再び訪ねた。とにかく、楽しそうに働いている。
残る 4枚は, ダラムサラを発ってデリーに向かった日の前日, 1983年12月10日 の撮影。
18) 街で撮った一コマ。
19)~21) ダラムサラに着いた日の翌日、1983年12月4日に知り合い、その後、夕食を御馳走してくれたり、朝食を御馳走してくれたり(「御馳走」という漢字を書いているが、チャイ・パンケーキ・オムレツなどで当然ながら「豪華」なものでなく質素、しかし美味しく、勿論ありがたかった)、いろいろと案内してくれたチベット仏教の若い僧侶の簡素な僧院にて。
最後の一枚は、本 note 投稿のタイトル上の写真に使ったもの。その写真 21) の右端が上記の僧侶、右から 4番目は筆者(当時 23歳、今年「還暦」)。
キャプション代わりのテキストは上の方にリンクを置いた, ちょうど 1年前の note 投稿から転載しているので, 拙者(筆者)は昨年「還暦」を迎えていて, 今年ははや16歳, 違った, 911の誕生日に既に61歳になっている, たぶん(笑)。
ああ, 懐かしや。
レナーテを思い出しつつ, ピンク・フロイド 「エコーズ」 聴いてみよう ♫ 〜 歌詞和訳付き!
以下の note の第4章 1983年11~12月、インド・アムリトサルとダラムサラで一緒だったインド系ドイツ人バックパッカー、レナーテに "So I throw the windows wide, and call to you across the sky" 〜 ピンク・フロイド 「エコーズ」, 'ECHOES - The Best of Pink Floyd' version (歌詞和訳) (相変わらず長い見出しだなぁ, 笑)を, note リンクの下にそのまま掲載。原文テキスト中に添えていたその他の note リンクについては, その後のものも加えつつ。
詳しくはあちらとこちら(笑)、筆者の note 投稿2点、そしてその投稿2点へのリンクの下に、何だか淡い系の旅の想い出テキスト。
今日の本章では, 「note 投稿2点」でなく, 3点。実際にはこれに今日の本 note を加えて 4点かぁ!
インド人の父を持ち、幼い頃に別れたその父を探す旅でもある「放浪」の途中だったドイツ人バックパッカー、レナーテ。日本語の「風船」という渾名・愛称を付けられ、実際、風船のように気ままに歩き、「自由」そのものという風情、不思議な趣の風雅の人だったレナーテ。
感受性が強く、山を歩いているといつも小さな虫や花に目を留めていたレナーテ。
英語で話すときは "Maybe" が口癖で、朝、顔を洗ってると 、笑いながら "Maybe you can lend me your towel" と言って近づいてきたレナーテ。その時の彼女の顔、表情や声は今でも思い出せる。
当時の日記に色々と書いてあって懐かしいんだが ... レナーテは、それまでの2週間、旅を共にしていた 4人がそれぞれ一人旅に戻る日の前日、いつかそう遠くないうち、1年後ぐらいには、日本語を少し勉強した上で日本に行きたいと言っていた。学生として来るとか、あるいは来日してから外国語の会話学校みたいなところで職をみつけてドイツ語を教えたりしながら、日本に長居して(当時の筆者の日記によれば)"I wanna see what's going on in Japan" と言って、その時は筆者のところを訪ねたいと言っていた。
別れの日の朝、「トルコを発って以来、男のせいでプロブレムばかり。男の方が楽だから(イスタンブールのあるトルコ西部はまだしも、トルコ東部、イラン、パキスタンといったイスラム圏では女性のバックパッカーが一人旅することはほぼ不可能で大抵は男のバックパッカーを同伴して移動せざるを得なくなる)、男になりたいと思うようになっていたけれど、でも初めて女でありたいと思うようになった」と筆者に言ったレナーテ。しかしまぁ、色々とこっちが本気になる、あるいは勘違い(笑)しておかしくないようなセリフを彼女はその時に言っていて、筆者はそれをその通り、当時の日記に書いていたのだった(爆)。
先に発つ筆者が一度道を間違えた時、見送りで一緒にいて、「道をみつけられなかったのなら、それは発つ必要がないっていうサインだよ」と言ったレナーテ。これも何というか、どう考えても、こっちは色々と本気になるなり勘違いするなりしてしまうセリフだなぁ(笑)。
最後に別れる時、レナーテはたまたま道端で売られていた風船をみつけて買い、膨らませ、それをこちらに渡すのでこっちでもまた膨らませ、筆者がバスに乗る前にあらためて握手、レナーテは(当時の日記によれば)"... really with you" と言ったんだけれども、肝心な(肝心かどうか分からないが、笑)"... " の部分は聴き取れなかった。楽しかったとか、また会いたいといった感じの単なる挨拶程度の言葉だったかもしれないが(笑 .. 笑ばっかしだな、しかし実際には笑っていないのだった。単に懐かしい!)。
結局、レナーテは自分の風船を筆者に渡し、「よく膨らませたら、空に飛ばしてくれ」と言った。その後、自分がその風船をどうしたのか、思い出せない。まぁ当時の自分の旅日記を日毎捲って一所懸命探すと、何処かに書いてあるのかな。
あのバックパック担いだ海外「放浪」もどき旅で出会った女性バックパッカーで抜きん出て、最も印象に残っているレナーテ、ああ、懐かしい。
筆者の日記には、互いの住所を交換した時のレナーテの直筆の字が残っていて、そこには "See you somewhere in Japan, Germany, France or maybe Egypt" という彼女のメッセージも添えられている。しかし、日本とドイツは分かるが、なぜフランスとエジプトの国名も書かれているのか、その理由が全く思い出せない。
しかし、レナーテが日本に来ることはなかった。来ていたら、ほぼ確実に連絡があったはずだから、実際、来なかったのだと思う。お互い、住所を交換しながら、その後、手紙のやり取りもしなかったような気がする。
南インドに住むインド人の父に再会する旅でもあった、その旅の途中だったレナーテ。
今、レナーテと実際にもう一度会いたいとは不思議なことに思わなくて(何かの縁があって会ったらそれこそワンダフルだろうけれど)、いつまでも想い出の中にいてくれるだけでいいと思っている。
ただ、絶対大丈夫だと信じているが(無神論者の筆者ながら、こういう時は宇宙の何処かか地上の其処彼処に存在するであろう物理的・科学的な意味における「絶対的な」力にでも祈る、祈りの真似事をする!)、とにかく、あの後も無事、レナーテは安全に旅を続け、今頃はドイツかインドか、はたまたどういうわけかフランスかエジプトか、あるいは他の何処かの国で、幸せな人生を送っているものと信じる。
そういうわけで 〜 "So I throw the windows wide, and call to you across the sky" ♫
以下の写真 4枚は、レナーテにさよなら "Auf Wiedersehen" する、その 3日前、インド・ダラムサラ、標高2,000m超辺りの山の中で撮った夕日の風景。
"Echoes" の歌詞で、最後に "So I throw the windows wide, and call to you across the sky" が出てくるところは、実は夕方じゃなくて、"A million bright ambassadors of morning" がやってくる、朝なんだけどね。
でもまぁ、そもそもが、あの歌のあの歌詞は、自分と自分の分身との対話みたいなところがあるように思える、そんな不思議な味わいの歌詞なのだ。
写真 4枚の下には、元々は 1971年リリースの "Echoes" が、2001年に発表されたピンク・フロイドの2枚組ベスト・アルバム 'ECHOES - The Best of Pink Floyd' (しかも疾うの昔に別れたロジャー・ウォーターズを含むメンバー4人が選曲に携わったベスト盤) に収められた時のショート・ヴァージョンの音源リンクと、歌詞(歌詞はオリジナル、1971年リリース "Meddle" のフル・ヴァージョンと同じ)、および筆者による和訳歌詞を掲載。
Echoes (short version) 〜 from "ECHOES - The Best of Pink Floyd", the compilation album by Pink Floyd, released on November 5, 2001
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。
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頭上 空高く アホウドリが (*1)
宙に舞い上がったまま静止して垂れ下がる
そして 揺れる波間の奥深く
珊瑚の洞窟の迷宮の中
遠く離れた潮の流れ 遥かな過去の残響が (*2)
砂地を越え 風に舞う柳の如くゆらゆらとやって来る (*3)
そして 何もかもが青々とした緑色を成し 海の底に (*4)
誰も我々を陸地に導かなかった
誰もが 何処にいるのか 何故そこにいるのかを 分かっていない
しかし何かが目覚めて動き出し 何かが試みを始める (*5)
そして 光に向かって 登り始めるのだ
通りすがりの見知らぬ者どうしが
偶然にも 一瞬その視線を交わす
実は私はあなたであり 私が見ているのは私自身なのだ
私はあなたの手を取り
この地の何処(いずこ)かに導き
自らができる最上のことは何なのか 理解することになるだろうか?
先に進むよう呼びかけるものなどいない
視線を落とすよう強いるものもいない
言葉を発するものはいないし 我々のように試みるものもいない
太陽の周りを飛ぶものなどいないのだ
雲ひとつない毎日 あなたは 覚醒した私の眼に舞い降りる
私に起き上がるよう 誘い(いざない) 鼓舞しながら
そして 壁に埋められた窓を通し
陽の光の翼に乗って差し込んでくるのは
眩い(まばゆい)ばかりに光り輝く何百万もの朝の大使 (*6)
私に子守唄を歌ってくれるものなどいない
私の目を閉じさせるものもいない
だから私は窓を大きく開け放ち
空の向こうのあなたに呼びかけるのだ
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注釈
*1 albatross
鳥の名前、アホウドリのことだけれど、アホウドリは南太平洋に沢山いて、翼が長いのが特徴の水鳥。この鳥を航海中に見たらそれは嵐の前兆だとされたとかいう話もあるようで、それと関係があるのかどうか、"albatross" には「心配のもと」、要するに、心配なので「頭痛の種」になるようなものを意味する場合がある。
"albatross" が「頭痛の種」を意味する場合がある鳥の名前だと思えば、この歌の歌詞が "Overhead the albatross hangs motionless upon the air", 「頭上 空高く アホウドリが 宙に舞い上がったまま静止して垂れ下がる」で始まっている点、英語で「頭痛」を意味する "headache" にも「頭痛」だけでなく、「頭痛の種、悩みの種、困ったこと」といった意味があるわけで、"Overhead" と "albatross" の意味上の関連があってこうした wording, すなわち言い回しなり言葉遣いなりが為されたのか、その辺り、興味深いものがある。
つまり、単に「アホウドリ」という水鳥のイメージだけでなく、「アホウドリ」=「頭痛の種(心配事、困り事、悩みの種)」が「頭上」にあってといった意味合いが込められている、そういったダブル・ミーニング的なニュアンスがあるのかどうか。
*2 time (tide)
この箇所、"time" にも "tide" にも聞こえる。文脈上、"tide" であっても不自然ではないと思うが、ネット上の歌詞サイトで見る限り、"time" としている方が多いようだ。
"distant time" なら「遠い過去の時代」といった意味合いになると思うが、"tide" も「潮の流れ」「潮流」の他に文語として「好機」「潮時」、更にはやはり文語で「季節」「時期」といった意味として使われるケースがあり("Christmastide" などのように結合語の一部としてというケースが多いようだが)、"distant time" なら「 遠い時代」「遥かな過去」といった訳し方ができる一方で、"distant tide" も似たような意味で解釈することは可能だと思う。
そこで、当該の箇所 "The echo of a distant time (tide)" については、"tide" の一般的な意味が「潮の流れ」であることも踏まえ、かつ "distant tide" としての解釈を先に持ってきた方が日本語としてのリズムがいいように思えたため、「遠く離れた潮の流れ 遥かな過去の残響が」と訳すことにした。
*3 willowing
willowing は難関。"willow" が動詞として使われることは、極めて稀だろうと思う。"willow" だけなら通常は「柳」の意だが、これを動詞として使うなら「開繊機にかける」という意味の極めて特殊なケースの場合になる。
結局、筆者は、"Comes willowing across the sand" については、些か苦し紛れであるが、前後の文脈を考えた上で、「砂地を越え 風に舞う柳の如くゆらゆらとやって来る」という長めの日本語表現にした。
この歌の歌詞における "willowing" の解釈は非常に難しく、英語話者の間でも議論されているくらいのもののようだ。
以下は、訳す際、"willowing" という、"willow" は「柳」の意の名詞でありながら "willowing" と動名詞に変化しているかに見えるこの箇所について、何か特殊な意味の(「開繊機にかける」の意味以外の)動詞としての "willow" があるのかどうか、何か手掛かりがないかとググって見つけたウェブ上の複数意見。ただし、これを見ても、結局、はっきりした結論は出ない。というか、正直言って、途中まで読んで、最後まで精読しないままに、歌詞和訳の作業に戻ってしまった(笑)。
なお、前項 *2 time (tide) との関連で言うと、前項において筆者が 〜 "time" にも "tide" にも聞こえるがネット上の歌詞サイトで見る限り "time" としている方が多いようだ 〜 としている件、以下のリンク先では質問者は "tide" の方を採用している。
*4 green
"green" は当然ながら、普通、日本語では「緑色」ということになるわけだが、英語の "green" には(形容詞として)「緑の」「緑色の」といった意味の他に、「(植物などが)青々した」とか、「(青々とした植物のように〕若々しい」「元気な」とか、「(果実が)青い」「未熟の」、それが転じてということなのだろうが、「(青い果実のように人が)未熟な」「経験の浅い」「世間知らずの」といった意味がある。ついでながら("Echoes" の歌詞の中においてどこまで「ついで」か分からないが)、「(顔色が)青ざめた」「吐きそうな様子で」「体調が悪そうな様子で」といった意味もあるようだ。
また、上記より更に「ついで」ながら、交通信号の中の日本語でいうところの「青信号」は英語では "green", "green light", "green signal", "green traffic signal", "green traffic light" といった言い方になり、いずれにしても "green", つまり日本語に直訳すれば「緑」「緑信号」であって、これに関しては英語話者の色彩感覚は日本人一般のそれと異なる事になる。要するに、英語の "green" と日本語の「緑」、英語の "blue" と日本語の「青」は、その意味するところがぴったりイコールで一致するわけではない。
"And everything is green and submarine" については、上記のような微妙なニュアンスを気にしつつ、「そして 何もかもが青々とした緑色を成し 海の底に」という日本語のフレーズに置き換えることにした。
*5 stir(s)
"stir" と言えば、筆者の頭に最初に浮かぶのは他動詞で「(スプーンなどの器具で液体を)かき回す、かき混ぜる」、自動詞で「(スプーンなどで)かき回せる、かき混ぜられる」といった意味になる単語だが、"stir" (はこの歌の歌詞の該当箇所では自動詞) には自動詞として他に「(位置が)わずかに動く」「ずれる」「揺れる」、「(休息後に)目覚める」「活動する」、また(文語として)「(感情が)呼び覚まされる」「(感情が)湧き上がる」、(話語として)「(騒ぎなどが)起きる」「発生する」といった様々な意味がある。
"But something stirs and something tries" については上記を踏まえ、「しかし何かが目覚めて動き出し 何かが試みを始める」と訳すことにした。
*6 A million bright ambassadors of morning
"A million" はもちろん、日本語に直訳すれば「百万」。ただ、ここで表現したいことは、「数え切れないほど沢山の」といったニュアンスだろうと思う。些か冗談めくが、通貨価値からしても "A million" US dollars はかなりの大金だが、「百万」円となるとそれと比べた場合にはそこそこの大金(筆者にはそれもかなりの大金だが、笑)。
いずれにしても、この歌詞の上記フレーズの中での "A million" は、日本語に置き換えた場合は「何百万もの」とした方が相応しいと考え、"A million bright ambassadors of morning" は日本語で「眩い(まばゆい)ばかりに光り輝く何百万もの朝の大使」と表現することにした。
* ピンク・フロイド 「エコーズ」 歌詞和訳, 初出 note 投稿はこれ。
さて, 本 note の最後の最後も, 例によって音楽で。
インド, アムリトサルとダラムサラで一緒だった, 父親がインド人のドイツ人女性バックパッカー, レナーテをあらためて想い出しつつ 〜 インド人のシタールの達人ラヴィ・シャンカルを父親に持つ異母姉妹, ノラ・ジョーンズとアヌーシュカ・シャンカルが共演した曲で締め括り ♫
1年前の今日の note 投稿の最後の締め括りと同じなのだった。
今日のダラムサラ旅 note で触れた, そして旅 note 前回のアムリトサル旅 note でも触れた, 38年前の晩秋から初冬にかけて(これって日本式の季節の言い方だね, ああ そうだね, と自問自答の禅問答), インドのアムリトサルとダラムサラで合わせて 2週間ほど一緒だったインド系ドイツ人, 同じ歳だった(だから今も同じ歳だね, そうだよそうだよ同じ歳だよ, とまたまた自問自答の禅問答), 当時の海外「放浪」もどき旅で出会った女性バックパッカーの中で抜きん出て, つまり最も, 今も(「今も」「トランジスタラジオ」♫ これじゃ清志郎の歌になるね, そうだね, としつこく禅問答), 強く印象に残っているレナーテを想い出して, そうなのだ, 父親がインド人のレナーテを想い出して,
本 note 投稿の最後は, ちょうど 1年前の note 投稿の最後と同じく, 父親はシタールの達人であるインド人ラヴィ・シャンカルで(母親は違うけれど)姉妹のアヌーシュカ・シャンカルとノラ・ジョーンズ(細かいこと言うと, お姉さんは後者ノラ・ジョーンズ)が共演するこの曲, この歌で締め括り。
Traces Of You 〜 Anoushka Shankar & Norah Jones ♫
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