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イラン, 革命から4年後のエスファハンとザヘダン 〜 1983年11月17-21日

1983年4月26日に日本を出て, ソ連・ヨーロッパ・中東諸国を旅し, 11月15日からはイラン・イスラム共和国, まずは首都テヘラン

トルコ側の国境の町ドグバヤジッドから陸路 国境を越え, まずは首都テヘランに滞在, については以下 note で, 日本を出てからそこまでに関しては以下 note 第6章 イランに入る前の, 2度目のトルコ滞在記 〜 1983年4月26日の日本出発以降そこまでの各国各都市の旅 note 全リンク付き にて。

因みに第1章は イラン革命, 「たら, れば」 〜 米英によるイラン介入と不当極まりない政権転覆(1950年代前半)が無かったなら, 回り回っての, 巡り巡っての, 1979年のイランのイスラム革命は無かったのではないか, その前にイランは「中東」(西アジア)随一の民主的な国になっていたのではないか。(長い長い見出しなりに中身もそれなりに面白いです, 笑)

.. と言いつつ, 第3章 テヘランの路地裏で出会った, イランの子供たち 〜 1983年11月16日(あのときの20ヶ国以上の旅で撮った写真の中で最も好きな写真のうちの 2枚)の写真2枚はぜひぜひ見てほしいのだ。 

さてさて, 当時ちょっと街の様子は暗かった首都テヘランの後は, 超絶美しいモスクがあるエスファハンへ。

エスファハン 〜 家に招いてくれた地元の人, 美しいモスク, バザール(1983年11月18-19日・写真12枚)

1/12 トルコ・イラン間の国境越えの時に知り合い, 国境〜テヘラン〜エスファハンと移動を共にしてきたドイツ人(当時は西ドイツ!)のウリー, そしてエスファハンの街で家に招待してくれた地元のイラン人青年。家に招待してもらって, 街も案内してもらい, その後, 自分たちの宿にイラン人青年と行ってから宿の部屋で撮った記念写真(ウリーと筆者はその日, カメラを宿に置いたまま外に出かけてた)。

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2/12 右は同上, 地元のイラン人青年, 左は何処かの国の世俗化した仏僧, じゃなくてこのオヤジ顔で当時23歳と2ヶ月だった日本人バックパッカー, 筆者。

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3/12 エスファハンで見たモスクはほんと, 美しかった。イマーム広場(とその付近, と言うべきかも)。詳しくは以下ウィキペディアとWikipedia, そして次々章の旅日記。

「イマーム広場」の正式名称は, ペルシャ語で میدان نقش جهان‎, ローマ字化すると Maidān-e Naghsh-e Jahān (意味は英訳すると "Image of the World Square")となるようで。 

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12/12 エスファハンのバザールでの一枚。

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ザヘダン 〜 地元の青年と, 昔々の「悪の枢軸」3ヶ国出身バックパッカー揃い踏み(1983年11月21日・写真1枚)

え? ザヘダンでは写真たったの1枚?まぁしかし, 「貧乏旅行」バックパッカー, 時にフィルムは節約せざるを得なかったのだ(それもあるけれど, 写真撮ることに気を取られると直に見たり地元の人と話したりといった生身の見聞が疎かになるので, しばしば, 写真は控えようとする気分になる時があったのだった, まぁ今の時代のようにスマホ持参の旅だったらもっと気軽に撮ってたんだろうけど!)。当時の旅に持っていったのは, カメラは「ナイコン」(ニコン)でなくコニカだったものの, フィルムはコダクローム ♫

さてさて, 1983年11月21日, イラン・イスラム共和国のザヘダンにて, 地元のイラン人青年と, バックパッカー「日独伊三国同盟」の揃い踏み。

手前でカメラを注視するハンサム・ガイがイタリア人のイタロー(Italo, 本名です), 直ぐ左後ろはドイツ人(当時は西ドイツ!)のウリー, 後ろの左は日本から来た出家僧ながらいつの間にかひどく世俗化してしまった日本人(オレ, あ, 無宗教です, ついでに言うとこのオヤジ顔で23歳2ヶ月かよ), そして筆者の右が地元イラン・イスラム共和国ザヘダン出身のイラン人青年。

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さてさて, それらのいろいろ, それぞれそこそこ詳しくは, 以下, 当時の旅日記にて。

イラン, 革命から4年後のエスファハンとザヘダン 〜 1983年11月17-21日(テヘランから離れれば離れるほど「世俗」が顔を出して "楽しさ" も "不道徳" もより見えやすくなる, 旅日記9ページ)

テヘランから離れれば離れるほど「世俗」が顔を出して "楽しさ" も "不道徳" もより見えやすくなる。それはザヘダンまで進むと明らかだった。少なくともあの時の旅における見聞という, 筆者の個人的な経験においては。

旅日記 1/9 冒頭の4行は前日, 1983年11月16日にテヘランの宿で書いている(本 note 第1章にテヘラン旅 note リンク)。「ウリー」はトルコ・イラン間の陸路国境越えの際に知り合ったドイツ人(当時は西ドイツ)。

*なんたって, ベルリンにまだ壁があった時代

(初夏のヨーロッパに戻ってしまった!)

再び, 晩秋のペルシャ, イランへ。時は 1983年11月17日

日記では「エスファハン」と書いていたけれど, 他にエスファハーン, イスファハン, イスファハーンといったカタカナ表記がある(ペルシア語: اصفهان‎; ローマ字化すると Eṣfahān, 英語: Isfahan)。イランの首都テヘランの南に340kmほど行ったところに位置する都市。

テヘランを午前11時にバスで発ち, エスファハンに着いたのは夕方6時。

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ドライバーは, 運転しながら, 確かに「ホメイニは嫌いだ」と言ったが, きき直すと, 「コミュニスト」と言ってごまかした。(しかし彼自身は, チャランポランな感じのおもしろい男。アメリカが好きだってさ。)

首都テヘランから離れ, エスファハンに来ると, こういうことを口にする人に会えたりした(次のザヘダンまで行くとそういう雰囲気は更にあって,当時やや意外ではあった)。

泊まったホテルは,

シャワーあるが cold。

いわゆる「貧乏旅行」バックパッカーの旅だったから, こんなことは各地で経験して珍しいことではなかったけれど。

旅日記 2/9

ここのモスクは本当に綺麗だった。掛け値なく美しいモスク。

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上掲の旅日記, 下の8行からは 1983年11月18日

旅日記 3/9 以下は上掲の旅日記・前頁の最後4行から下掲のこの頁にかけての引用。

公園の外に出ると 黒いチャドルの大ぜいの女が歩いてる。モスクのある広場へ入った。ボディチェックを受けてから。(みんな受けてた) 入口は男女別
みんな同じ方向にすわり始める。集会が始まった。大集会だ。スピーカーからの声。となりに座った, 英語を話す男によると, 合唱する言葉は アラーフアクバル, ホメイニは我々のリーダーだ, NO アメリカ, NO ロシア, NO イラク 等々。とにかく迫力ある集会だった。となりの男は 戦場で神を見たと言った。自分たちを助けてくれる神を。really Hard ムスリムです。すごい体験だった。(あの集会は)
遠くからバスでも来てる。男女別にすわる

さて, 

終了後, ウリーのとなりにすわった男(英語しゃべる)の家に招待されて 昼めし。チョロケバブなど。with 男家族のみ(女は出てこなかった)

そして,

戦死者やイラクに殺された人々の墓へ。多ぜいの人々。歩いてて 老人が近づいてきて いろいろと話してきた。自分の国へ帰ったら伝えてほしいとのこと。強制でなく, みんな自分からすすんで戦場に行くらしい。ウソじゃないと思う。イエニで会ったイラン人でさえ そう言ってた。

「みんな自分からすすんで戦場に行くらしい。ウソじゃないと思う」, とはいえ, 例えば第二次世界大戦前の日本も, 徴兵制があるにしても表面上は「みんな自分からすすんで戦場に行く」ように見えていたとは思うけれど。

「イエニで会ったイラン人」, 「イエニ」とはトルコのイスタンブールで泊まったイエニペンションという名の安宿のことで, そこで「会ったイラン人」のことは以下の note に。

さて, 話を 1983年11月18日のイラン・イスラム共和国, エスファハンに戻して,

名のわからん死体の方には「革命の子」と書かれている。カメラを持ってけばよかった。(「とってくれ」と言われた。

カメラ, 宿の部屋に置いてきてしまってたのか。いま思うと, そういうことはあの旅の間わりとあったと思う。「貧乏旅行」バックパッカーとしてフィルム節約の必要があっただけでなく, カメラを持って外に出ると写真撮りの行為に気を取られてしまいがちで, 直に眼で見て, あるいは地元の人と接し, 話して, といった旅の醍醐味を味わう行為がやや疎かになってしまうなぁ, だから.. といった心理など働いていたような気もする。

10代の少年の墓が多い老人や女性のもある

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しばらく歩いてから イマームモスクの方へ。特別のはからいで 入れてくれた。

この時のことは今もよく憶えていて(相手のそれぞれの顔レベルの鮮明さまではないけれど, その時の様子が頭にちゃんと「映像」的に浮かんでくるくらいに),

中で数人のイラン人青年に囲まれ, いくつか質問された。「ヒロシマ」の後, なぜ アメリカと仲良くなれるのか など。

昔はよく使った用語で言うと(近年あまり使われないような気がする)「第三世界」の国々を旅していると, これとほぼ同趣旨の問いかけはしばしばあった。彼らは決して「ヒロシマ」以前の日本のアジア諸国侵略などの歴史を知らないわけではなく, 学生とかだと大抵はおおよその知識を持っている。それでも, という感じ。

上掲の旅日記の最後の5行のところであらためて記述がある地元のイラン人青年, 昼食時に家に招待してくれた彼は, 結局その後もいろいろ案内してくれていたのだった。

旅日記 4/9

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上掲の旅日記のおおよそ下半分は, 1983年11月19日

ザヘダンへの切符 買う。2人で 1700RI。Hotel に荷物を午後までおかせてもらう(in the room)ようにし, バザールやモスクのある広場へ。そこでいったん別れ, オレは写真とったり, モスクへ入ったり, バザール歩いたり。入ったモスクは, きのう入ったイマームモスクとは別の方。(写真とった, 両方) やはり青を基調としていて 幾何学模様 等 すばらしい。

この時の写真は, 本 note 第2章に掲載。

1時間ぐらいの別行動のあと, またともに バザール歩いたり, チャイ飲んだりした。Hotel から近いセルフサービスレストランで昼めしのあと, 荷物とって バスへ。2時半 PM 発。

エスファハンからザヘダン行きのそのバスはそのまま夜行バスとなり, 

砂漠に沈む夕陽が すばらしかった。夜の砂漠の風景, 夜空等もきれい。

旅日記 5/9 見ての通りで, 最初の4文字「も きれい」は既に上で引用。

紙を持ってて よかったが, ああ, しかし まいったぜ。

(笑) しかししかし, 当時の自分の旅ルートで言えば, トルコからイラン, パキスタン, インドと向かう旅の間にこういうことは十二分に有り得ることで(バスにしろ列車にしろ移動が長時間のケースが多い, 後者はともかく前者の場合はね!), バックパッカーとしてはリュックサック(つまりバックパック!)にトイレット・ペーパーを入れておくことは必須だった。こういうケースの時以外では, イスラーム圏の国々ならトイレの設備では「郷に入れば郷に従え」で地元式, 水と手の共同作業で拭くってやり方をしていたけれど(これは経験者なら分かるけど, 全く知らない人に説明するにはやや字数が要る, ここでは割愛!)。

さて,

バスの中で, ウリーといろいろ話した。反米も含めて 政治のことなど。ウリーも 日本の首相の名 ナカソネ を言えなかった。言ったら, ああ そうだと うなずく程度。やはり 日本は 経済大国, 政治小国。 

2021年の今現在は, 日本は既に「経済大国」の地位からも陥落してるけれどね!

旅日記にある通りで, 引き続きバスの中で, ウリーと当時の政治情勢, 平和運動のことなど色々と話した。

※ エスファハンのバザールは nice!

と日記に書いてあるけれど, 写真1枚, 本 note 第2章にある。でもあの 1枚じゃ nice なのかどうかさっぱり分からない(笑)。

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1983年11月20日,

朝 6:20 頃 ザヘダン 着。すぐ近くで チャイ。あとで入ってきたソルジャーたちにケバブなどもらった。彼らはビールもウィスキーも好きだが 今はダメ嘆いてた。(手など切られる と ジェスチャー女もチャドルかぶってしまって 顔が見えないと不平不満。人なつこい奴らでした。

手など切られる と ジェスチャー」, イラン(シーア)やサウジアラビア(スンニ)などのイスラームのハードライナーつまり強硬派, 原理主義的な「神政国家」のシャリーア(イスラム法)では, これが完全に冗談とも言い切れない。サウジは特に酷いけれど, イスラーム革命からまだ4年後の当時のイラン・イスラム共和国も, そういう「怖ろしげな」世界はあっただろう。今も多少は残っているのではと疑うけれど。いずれにしても, それでも首都テヘランを離れ, ザヘダンまで辿り着くと, そんな当時ですら, 少なくとも外国人相手なら平然と上に引用したようなことを言う人々は其処彼処にいた。外国人相手でなくとも彼らの仲間うち気心の知れた者同士では, この種のことを話して, 嘆いたり, 怒ったり, 笑ったりしていたことだろう, 人間なんて そういうものだと思う, いい意味で!

合わないな, ここで吉田拓郎(笑)。そもそもファンでは全然ないけれど!

さて, 上掲の旅日記からの引用の続き, 

タクシー乗って(50リアルぐらい)バザール近くへ。それから歩いて Hotel 見つける。(3人ルームとって 1000RI)

「3人ルーム」, 要するに 3人部屋しか空いてなかったのか, あるいはそれしかなかったのか。

アフガン人がいた。前はよく旅行者がアフガンに来たものだが, 今はダメだ。彼はアンティックの店をしてたらしい。ファッキング ロシア と言った。

そう, 確かに当時 手に入るバックパッカーの為のガイド本などでは, ちょっと前の発行のものだとアフガニスタンのことが詳しく書かれていたりした。あの国はバックパッカーにとってけっこう人気ある国だったのだ。ヨーロッパからインドに行く, あるいはインドからヨーロッパ方面に旅するバックパッカー達の多くが, 途中, アフガニスタンを旅していたはずだ。自分の時は既にソ連アフガニスタンに軍事侵攻した為にあの国が連中の支配下にあった時代で, あの国を自由に旅するのはほぼ不可能だった。更にその後のアフガニスタンの歴史をも見てみれば, あの国がどれだけ, アメリカ合州国を含む超大国, その他テロリストなど多種多様な外部勢力の力に翻弄されてきたのかが分かる。

旅日記 6/9

彼らアフガニスタン人(上記の旅日記前頁からの引用にある「アフガン人」)は,

英語をかなりしゃべれる。イランでは ハッピーな人をみつけるのはむずかしいだろうと言った。確かに暗い。イスファハンで会った, あのまじめなモスレムにしても どこか暗かった。明るさ, 活気に欠ける。

さて,

ザヘダンには たくさんの民族がいるみたい。モンゴル人っぽい, つまり日本人に似た顔もわりとみる。アフガンも多いと思う。

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ここは, 今日だけの印象でいいかげんだが, シーア派モスレムの激しさがあまり感じられない。もっとも, いろんな民族がいるようで, それも当然かもしれん。

上掲の旅日記頁の上記引用の後の部分, どうも「同じホテルの男たち」の騙しのようなものに引っ掛かったのかもしれない。騙し, というと大袈裟だが, 要するにレストランとつるんでいて, 値段をぼられたのは間違いないだろう。

その後, 今度は, 軽トラの男たちがまた小悪人だった。

旅日記 7/9

上記の軽トラの小悪人たちについての話, 続き。

くそっ! ばかに親切だと思った。人がすれてる。イヤな奴多し。しかし, ホテルの名すら おぼえとかなかったオレたちも, 貧乏旅行者として失格。しかし覆水盆に帰らず。What is done cannot be undone. くよくよせずに 以後 気をつけよう。

「人がすれてる。イヤな奴多し」, その直前の「同じホテルの男たち」の騙しのようなこともあったからね。「覆水盆に帰らず」, これは後の方の漢字間違ってて, 正しくは "覆水盆に返らず" だった! まぁとにかく, 「くよくよせずに 以後 気をつけよう」。という切り替えの早さは時に重要かも(笑)。

今晩は 満月のようだ。明日は パキへ行くぞ。

「パキ」とは, パキスタン。パキスタン・イスラム共和国!

さて, それはさておき, 下掲の旅日記頁, 上記引用の「今晩は 満月のようだ。明日は パキへ行くぞ。」以降の記述はけっこう面白い。まぁ自分が書いたものを自分で面白いというのもナンだけど(ナンはインドの美味しいパン! 関係ないか)。

とりあえず 1つ目の ※ のところも興味深く, そして続く2つ目の ※ では,

イラン革命は 文化革命だ。反西洋の。しかし こういうかたちになってしまったのは 悲劇だ。中国の文革も 結局は 失敗だった。要するに今, 欧米の文化は 世界中で強い。(決して他よりすぐれているとは思わん。しかし 強い。

とはいえ, 欧米の文化のなかに「他よりすぐれている」ところがある点も認めなければならないだろう。一方で「強い」ことの理由はそれだけでないのも確かなのだが。

そして 2021年の今, 欧米の文化は当時と比べ, 世界における影響力という意味合いにおいて相対的に弱体化したように思う。しかし, それはじゃあ, 台頭してきた例えば中国とかその他のさまざまな場所のものがいま「すぐれている」からなのか。やはりそういう単純なものではないんだね, 世の中の「強い」とか「弱い」とかいったことは!

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旅日記 8/9

1983年11月21日

Hotel を出て, 朝めし。イラン青年(上記)と知り合う。

「上記」とは, 下掲の旅日記頁の上部に記載の意。彼の住所など個人情報で note 掲載上はカット。

自国, 自国民をむやみやたらと悪く言うのが気にかかるが, しかしナイスガイだった。イギリスで英語勉強したことあって, オレよりはずっとできる。

(パキスタンとの)国境行きのバスターミナルに行って,

そこで イタリア人と知り合った。34才。3年前 インド 8ヶ月, ネパールと合せて 1年近く, の経験あり。名は イタロー。覚えやすい。化学の先生。(ミラノに近い) 3年前 イランに来たときは, 革命から間もない頃で, よくなりつつあるように見えたという。政治のことなども話したが(マルビナス諸島「フォークランド」etc.), 考え方 似てる。

そのイタリア人の名前は冗談でなく本当に「イタロー」, Italo だった。なお, 「フォークランド」はあの「フォークランド」紛争に関する言及に関してのこと。

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旅日記 9/9

日本人のオレ, ドイツ人のウリー, イタリア人のイタロー, そういうわけで,

偶然にも 旧 悪 同盟国 が集まった。イタローも そう言って 笑った。

第二次世界大戦前の時代の悪の枢軸」, 日独伊三国同盟(笑)。

戦争が終わったら, 

4行目のこれは, もちろん, 当時のイラン・イラク戦争のこと。

さて, 下掲の旅日記頁, 真ん中あたりからは既に国境越えて隣国 パキスタン に入っている(タフタン)。そして, 「イミグレで働いてる男(クウェッタ出身)」の「クウェッタ」とは, パキスタンに入って入国手続きを済ませた後に向かうパキスタン側の都市の名前(まだまだそこには辿り着かない!)。

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「みんなで ハッシッシ」とあって, この時が自分の初めての「ハッシッシ」体験と言えなくもないのだが(この場所の状況やここに至る経緯は日記に書いてある通りなのだがとにかく非常に不思議な条件のところだった, あれが合法だったのかどうかというと怪しいのだがそもそもその時のその場所に法律の網はかかっていたのか, それすら怪しい), しかしインドに行ってからほぼ連日ガンチャをやるうちに振り返ると(いずれにしても同じくアレのことだけど言葉の使い分けは詳しくない, あらためて調べれば分かるがまぁいま現在興味ないし気が向いたら調べる, 笑; 因みにインドでは基本, 合法の条件のもと)(これも一応書いておくけれど, 日本でやったことはないし率直に言って日本でやる気など一切ない, 長い括弧だったな, 再笑!), あのタフタンでのあれは, 自分にとってはやってないも同然で, 雰囲気だけでやった気になっていたようなものだと思い直した。というのは, 自分はそれまでタバコを吸う「習慣」がなかったから, 実際にはちゃんと吸い込んでなかった, というか, ちゃんと吸い込めてなかったに違いないのだ。それがその後, パキスタン, インドと旅を続けるうちに「慣れた」わけだけど(それはそのとき「トリップ」とは何かが分かったから確認できたこと)。

まぁとにかく, あの日の夜は, かなり不思議な夜だった。

何とも 不思議な夜でありました。

最後, ちょっと話は変わるけど, 

イタローが, 我々は それぞれの英語で 会話できると言った。その通り。

ああ, それはその通りだと思う。「それぞれの英語で」いいよ。問題ない。

さて, 今日の note の最後は,

The End 〜 The Doors ♫

The End 〜 the title track on The Doors' 1967 self-titled debut album

This is the end
Beautiful friend

This is the end
My only friend, the end

Of our elaborate plans, the end
Of everything that stands, the end
No safety or surprise, the end
I'll never look into your eyes again

Can you picture what will be?
So limitless and free
Desperately in need
Of some stranger's hand
In a desperate land

Lost in a Roman wilderness of pain
And all the children are insane
All the children are insane
Waiting for the summer rain, yeah

There's danger on the edge of town
Ride the King's Highway, baby
Weird scenes inside the gold mine
Ride the highway west, baby
Ride the snake, ride the snake
To the lake, the ancient lake, baby
The snake, he's long, seven miles
Ride the snake
He's old and his skin is cold
The west is the best
The west is the best
Get here and we'll do the rest
The blue bus is calling us
The blue bus is calling us
Driver, where you taking us?

The killer awoke before dawn
He put his boots on
He took a face from the ancient gallery
And he walked on down the hall
He went into the room where his sister lived, and then he
Paid a visit to his brother, and then he
He walked on down the hall, and
And he came to a door
And he looked inside
"Father?" "Yes, son?" "I want to kill you"
"Mother? I want to..."

Come on baby, take a chance with us
Come on baby, take a chance with us
Come on baby, take a chance with us
And meet me at the back of the blue bus
Of the blue bus, on the blue bus, on the blue bus
Come on yeah
Fuck, fuck
Fuck fuck, fuck, fuck
Come on baby, fuck me baby yeah
Fuck fuck fuck fuck fuck
Come on baby, fuck me baby
Fuck fuck fuck fuck fuck
Come on
Fuck fuck
Alright
Fuck fuck
Kill, kill, kill, kill

This is the end
Beautiful friend
This is the end
My only friend, the end

It hurts to set you free
But you'll never follow me
The end of laughter and soft lies
The end of nights we tried to die

This is the end

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