17年ぶりに出した手紙①~17年ぶりの返事~
先月、父親のパソコンの調子が悪くなった。
保証書を探しがてら、書類整理をしていたら
懐かしい手紙が出てきたらしく
父親が私に手渡した。
それは、私が高校時代にお世話になった、家庭教師の先生からの手紙だった。
今からもう17年前の手紙だし、親宛に出された手紙だし、一度読んだ後は親が保管していた。
だから私も家族も
手紙の内容はおろか、手紙の存在さえ忘れていた。
17年ぶりに封筒を見た。
懐かしい先生の名前だ。
ピンク色と白の和柄の封筒で
素晴らしく達筆だ。字からも賢さが滲み出ている。
消印から、私が高校三年生の12月に出された手紙だと分かった。
私は中学時代までは成績が上位だったが
進学校の高校に入学してからは成績が振るわず
高校一年生の終わりに家庭教師をつけてほしいと親に懇願した。
それが手紙の主のA先生だ。
A先生は才色兼備の言葉が似合う美人で、スタイルもよかった。
父親が亡くなり、母親が子どもを三人育てていた。
A先生には二人の弟がいた。
A先生含め三人とも奨学金狙いで
三人とも偏差値の高い高校に入学し、上位をキープし
A先生は有名大学に合格した。
成績が優秀の為、返さなくても良い奨学金制度を利用できていると言っていた。
返さなくてもよい制度の為、毎年査定はかなり厳しいらしい。
根性や負けん気が半端ない。
私は先生のそんなところも尊敬していた。
出会いは私が高校一年生の終わり、A先生は大学二年生だった。
私は最初、あまりにも美人な先生がやってきたので大変驚いた。
それほどに美人だったのだ。
A先生は数学と英語を週二回教えてくださることになった。
どんな問題を聞いても、先生は教えてくれた。
さすが先生だと思った。
「私は課題がある方が燃えるんです!ジャンジャン宿題出して下さい。」
と言うと
容赦なく宿題を出してくれた。
勝ち気な美人。本当にかっこいい。
私が問題を解いている間、親が出した夕飯を残さずになんでも食べた。
好き嫌いなく、なんでもよく食べるところがまたかっこよかった。
先生の指導のお陰で、高校二年生最初の中間テストで数学はクラストップになり、英語も格段に成績が上がった。
家庭教師協会から、チラシに載らないかと話があるくらい、一気に成績が上がった。
そのまま成績を私はキープし、お陰で模試判定E判定の本命大学に、私は推薦合格できた。
だから、私も家族もA先生には感謝しかない。
A先生がいなかったら、本命大学の合格はあり得なかったし
本命大学の生活は素晴らしいものだったから。
私が高校三年生の秋に推薦合格が決まり、家庭教師は終わりを告げた。
両親はA先生にブランドのポーチをプレゼントした。
A先生からの手紙とは、これのお礼状である。
だから私に宛てた内容ではあったが
宛先は、親だったのだ。
実際手紙は便箋二枚に渡り、更に様々なことが書いてあるが、一部抜粋するとこんなことが書いてあった。
今読んでも、胸にじんわり来る。
A先生が本当に私に真摯に向き合ってくれたことがヒシヒシ伝わる。
先生はよく私を「妹のようだ。」と言ってくれた。
実際先生には、私と同い年の弟がいた。
私は17年前にもらった手紙を17年ぶりに読み、涙した。
この手紙の後、私は一回だけ先生に年賀状を出し
年明けた一月に、先生お気に入りのお洒落なカフェで合格祝い会をした。
先生の驕りだった。
それが、私とA先生の最後のやりとりだった。
「久しぶりに年賀状書いてみたら?」
母が提案した。
ちょうど私は、みんなに年賀状を書いていた時期だった。
たまたまその数日前、Twitterでかつての文通相手と15年以上ぶりに手紙を出し合ったという話題があった。
やはり私と同じケースで、部屋を片づけていたら手紙が見つかり、懐かしくなって久々に手紙を出したら返事が来たらしいのだ。
私はTwitterのそれにも背中を押された。
今、コロナ禍だから尚更かもしれない。
人と繋がりたいとより思ったのかもしれない。
私はA先生に17年ぶりに年賀状を書くことに決めた。
きっと引っ越しているだろうが
実家の住所は知っているから
多分届くだろう。
いっそ、便箋に書けばいいのに………と自分でツッコむくらい
年賀状は長文of長文になった。
そんなことを年賀状に書いた。
絵よりも文が長い、ヘンテコな年賀状になってしまったが
後には退けない。
私は年賀状を投函してから毎日ドキドキしていた。
一月になってから毎日毎日
A先生からの返事を待った。
だが、なかなか来なかった。
少し寂しい気持ちでいた時、昨日、ポストに水色の封筒を見つけた。
見覚えのある字だ。
………A先生からの、手紙だった。
あれほど待ち望んでいた手紙のくせに、いざ届くと興奮や緊張をしてしまい
手紙を開けるまでにしばし時間がかかってしまった。
住所によると先生は今、中部地方にいるらしい。
中部地方!?
意外だった。
てっきり東京かと思った。
私は恐る恐る慎重に、手紙の封を切った。
便箋は雪の結晶が散りばめられていた。
どうやら喪中により、年賀状は返せなかったらしい。
A先生は自分の教え子が福祉の世界で頑張っていたことを喜んでくれた。
私が高校二年生の頃、福祉の道か心理学の道に進むか迷っていた時
背中を押してくれた人がA先生だ。
私が心理学の大学に行きつつも、結局福祉の分野で働いたことは「ともかちゃんらしいな。」ときっと思ったに違いない。
手紙にはそう書いてあった。
A先生は決しておごらない。
飛躍的に成績が上がったのは先生の指導あってこそなのに
私の頑張りを褒めてくれた。
あの当時も、今でさえ。
便箋をめくると、二枚目に先生が家庭教師を辞めた後のことが書かれていた。
長年エンジニアとして働いていたが、結婚を機に退職し、子宝に恵まれたこと。
旦那様が転勤族で、全国各地や海外を転々としていること。
今は中部地方にいるが、数ヶ月後、海外赴任が確定していること(コロナ次第ではあるが)。
私はぶったまげた。
エンジニアはエンジニアでも大手企業だし
てっきり東京にいるかと思いきや
全国各地や海外を転々とし
更に今年、また海外に行く予定とは…。
しかもその国名が国名で、個人的には予想ななめ上のぶったまげる場所で
A先生が私の想像以上にハイスペックなやり手であったと実感した。
私はとんでもない先生に教わっていたのだ。
アバン先生がかつて世界を救った勇者と知った時のポップのような気分だ。
コロナ禍の為、A先生はしばらく地元に帰っていないらしいが
海外赴任前にコロナが落ち着いたら実家に帰省するかもしれないし
その時都合が合えば、久々に再会したい旨が書かれていた。
多分先生は携帯番号は変わってないだろうし
私も当時とは変わっていない。
実家や実家電話番号も分かっているし
今の住所も分かったし
連絡手段は確かにある。
ご縁だな、と思った。
私は人に恵まれた、とも思った。
あの日あの時A先生が家庭教師でよかったし
年賀状を久々に出してみてよかった。
A先生が頑張っていて、元気そうな様子が伝わり
私は本当に嬉しかった。
退職したことはあえては伝えなかったけど
先生のお陰で今があり、今の幸せがあり、今でも私や家族が先生に感謝していると
年賀状で伝えられてよかった。
いつか再会する日があったなら、私は笑顔でA先生と再会したい。
自分の人生に誇りがあり、胸を張って生きていると
先生に伝えたい。
先生は今の私を見ても、きっと微笑んでくれると思う。