人生初めてのライブ~ポルノとの出会い~
私が一番最初にハマったアーティストはシャ乱Qで
時点はミスチルだった。
高校時代、好きなアーティストを聞かれればシャ乱Qやミスチルと答えたし
友達とカラオケに行けばシャ乱Qやミスチルを歌っていた。
私が高校時代はCDのミリオンセラーは当たり前の時代で
みんながそれぞれに好きなアーティストがいたし
好きなアーティスト以外の曲もたくさん聞いていた。
ヒットチャートの音楽は至る所で流れたし
音楽番組も盛んだった。
流行りの曲はみんなが知っていたし、口ずさめた。
CDにAタイプとかBタイプとか分かれていなかったし
着うたやダウンロードがまだない時代だ。
CDの売り上げ=人気という、分かりやすい時代だったし
売れている曲は何週間もオリコンチャート上位に君臨した。
どの音楽も
みんな違って、みんないい。
そういう時代だった。
高校時代、友達とCDの貸し借りをした。
TSUTAYAレンタルをしなくても、友達と貸し借りをするだけで
様々なジャンルの音楽を楽しむことができた。
スピッツ、浜崎あゆみ、BUMP OF CHICKEN、L'Arc-en-Ciel、GLAY、19、PIERROT、GACKT、モー娘。、あやや、KinKi Kids、小柳ゆき、宇多田ヒカル、倉木麻衣、矢井田瞳、ポケビ、ブラビ等
次から次へと友達から布教された。
アルバムを借りたというのもあるが
街中に高校があった為、高校の周りにはカラオケ店が乱立していた。
私の友達は歌が上手く、カラオケにより布教されたことも大きい。
私含め周りの友達も5種類くらいカラオケ店のカードを常に持っていた。
放課後や休日に友達とカラオケに行きまくっていたのが高校時代だ。
毎月カラオケに行っていた。
室料1円なんて時代だ。まねきねこである。
フリータイムでも、2~3時間でも
ドリンク飲み放題で一人500円かからなかった。
高校時代、私達にとって
カラオケは最高の遊び場だった。
そんな中だった。
私はポルノグラフィティと出会った。
当時、「ここが変だよ日本人」という番組があった。
各国代表の外国人が色々と討論し、様々な価値観やキャラクターに笑ったり、考えさせられる番組で
黒人のゾマホンが目立っていた。
そのテレビを見ていたら、EDがある日変わった。
ん?
と思った。
テロップによると「アポロ」という曲で、ポルノグラフィティというアーティストらしかった。
疾走感のある曲で、普通にいいじゃん、と思った。
Mステではアポロでデビューしたと話していた。
ボーカルは金髪で男性三人組で、何やら島出身らしい。
ボーカルが金髪ってよくあるよね。
バンドだけど三人組って珍しい。ドラムがいないんだ。
まぁデビュー曲売れすぎたから、次はどうかな?
私は最初、そんな気持ちだった。
友達が漫画GTOが好きで、漫画を布教されたのが高校時代だ。
アニメ化されたGTOの主題歌がポルノと聞いて、あのアポロの人か、と思った。
ただそれだけだ。
当時はドラマ>漫画>アニメの順にGTOが好きで、私はアニメをロクに見ていなかったのだ。
風向きが変わったのが、ポカリスエットのCMで「ミュージック・アワー」が起用されたことだ。
私の仲が良かった子がミュージック・アワーが好きで
カラオケでよく歌っていた。
アポロもミュージック・アワーもいい曲じゃん。
一発屋じゃないかもな~。
と、まだ呑気に構えていた頃に私を撃ち抜いたのが「サウダージ」である。
え…あ………何…これ。
「許してね恋心よ 淡い夢は波にさらわれたの」このインパクトのあるサビの始まり、ラテンやノスタルジーな曲調と、早口に歌い上げるアキヒト。
ラップともロックともカテゴライズできないその斬新さに、私はビックリした。
ポルノグラフィティの凄さを知ったのは、「サウダージ」の曲の時であった。
友達が「ミュージック・アワー」「サウダージ」のシングルを持っていたので
まとめて貸してくれた。
私はそこで初めてシングル曲をじっくり聞き、歌詞を見て、カップリング曲も聴いた。
当時はTSUTAYA(だっけな?)で歌詞カードを無料で配っていて
それを集めたりもしていた。
恋に落ちた瞬間だった。
友達から借りた二枚のシングルを手に取りながら
ポルノグラフィティに恋をした瞬間だった。
そこからの私は凄まじかった。
なんせ高校時代。一番感受性豊かなJKである。
ポルノグラフィティのグッズは中古で買わない!
きちんと公式にお金をかける!
と決意した私は
お小遣いを貯めては片っ端からCDやビデオを買った。
まだデビューして間もなかったので、CDを集めるのは容易かった。
アポロ、ミュージック・アワー、サウダージとヒットを飛ばしたポルノは
音楽番組にも雑誌にもジャンジャン出た。
HPを見て、その情報をキャッチしては
音楽番組を片っ端から録画し
雑誌は片っ端から立ち読みした。
さすがに雑誌は複数種類に載るので、買っていたら破産する。
友達が雑誌にポルノが載っていたら切り抜きをくれたり
雑誌ごとくれる場合もあった。
友達様々である。
カラオケの際、私はシャ乱Qやミスチルの人から、ポルノの人になった。
ポルノグラフィティと言ったら私だし
私と言ったらポルノグラフィティだ。
ポルノグラフィティのファンたるもの
歌は全て完璧に歌えるべし!
と、こちらも愛を暴走した私はマイルールをもうけていた。
歌詞カードを読みふけり、歌詞を暗記していた私は
授業中は机や小テストの裏に暗記した歌詞を写経のごとく描いた。
シングル曲はフラゲし、前日のうちにシングル曲の歌詞を全暗記して歌えるようにしていた。
テスト勉強より歌詞暗記が私の使命であった。
バカの極みである。
カップリング曲やアルバム曲もひたすら聴いて、歌詞を覚えていたし、よく歌ってもいた。
私は毎日公式HPの掲示板に熱い思いを書いた。
当時はまだパケ放題がなかった時代で、携帯料金がとんでもなくなった。
だから毎日毎日書くのは一ヶ月でやめたが
その熱意が通じ
二人のファンに声をかけられ、メル友ができた。
初めての、ポルノグラフィティのメル友である。
私の周りにはポルノグラフィティ大ファンはいなかったので
大阪や愛媛のポル友と毎日のようにポルノ愛をメールし合った。
まだTwitter等SNSもない時代
趣味の文通やメル友はポピュラーだった。
高校時代の友達もファン同士で文通やメールのやり取りをしていたし
一緒にライブに行ったり
ヴィジュアル系バンドファンはコスプレをしたりもしていたし
行動派な人は遠征もしていた。
ライブかぁ………いいなぁ!
私は友達のライブ話を聞きながら夢を見ていた。
ポルノグラフィティのライブに行きたいと
その頃強く思っていた。
そんな時に、私に絶好のチャンスが訪れた。
その頃、ポルノは4th LIVE CIRCUIT Cupid(is painted blind)というライブツアーをやっていたのだが
追加公演が発表されたのだ。
追加公演最終日は、私の17歳の誕生日だった。
これは運命だと思った。
「今年の誕生日プレゼントはポルノのライブチケットと交通費をください!」と親に交渉し、了承を得た私は
早速eプラスかどこかでチケットを購入した。
初めてライブチケットを買うので勝手がよく分からずにワタワタしたのを覚えている。
ライブデビューしたクラスメートはいたが
まだまだ少数派であった。
なんとかチケットを二枚ゲットした私は
そのチケットを神棚に供えた。
触るのも恐れ多い、神聖な存在にしか思えなかった。
1月20日当日
私は姉と共に横浜アリーナを目指した。
私が毎日ポルノポルノ騒いでCDを聴いていたので
姉もポルノを好きだったのが幸いだった。
「私もライブ行きたい!」と姉が言ってくれたのだ。
私も一人でライブはさすがに心細いし
ポル友の二人は横アリには参戦しなかった。
我が家から横アリは遠い。
友達や姉と電車で東京さえ行ったことがなかった私が
東京より遠い神奈川を目指すのだからすごい。
当時の私にとっては大冒険だったし
姉もそこまでの遠出は初めてだった。
姉も、ライブは初めてだった。
姉妹揃って、初ライブはポルノグラフィティなのである。
姉と精一杯お洒落をした。
ライブTシャツというものを私は知らなかった。
メイクをして、髪をかわいらしく束ねて、スカートを履いて
まるでデートのような気分だった。
ドキドキワクワクが止まらない。
ライブに行く前にプリクラを撮ったり、ランチをしたりしていると
ポルノファンと思われる人がたくさん見られた。
新横浜駅から横アリまで、人波の後ろをくっついて行けば道は分かりやすかった。
姉とはぐれないように寄り添いながら、係の人にチケットを見せて横アリに入った。
ライブグッズのカタログみたいなものを袋に入れられて渡されることも
ライブ会場にフラワースタンドがあることも初めて知り
キョロキョロうろうろした。
私の席は三階席だった。
広い広い会場の三階席。
だけど、ステージ正面の位置だった。
これは神席じゃないか!?
私はワァワァした。
興奮が止まらなかったのである。
時間になり、照明が落ち、周りが歓声を上げながら立ち上がり、周りの動きに従う。
まずサポートメンバーが登場し、アキヒトさん、ハルイチさん、タマちゃんが登場した。
テレビ越しではなく
大好きな人達が今目の前にいる!
それはあまりにも嬉しすぎることで、私は歓声を上げ、笑い、泣き
ライブの渦にあっという間に巻き込まれた。
有名なシングル曲だけでなく、アルバム曲も次々に披露し
見よう見まねで手拍子をしたり、手を振ったりし
夢のような数時間は
あっという間に終わった。
ライブ会場を出た後、姉と私は生ライブの迫力に圧倒され
ライブの感想を言いまくった。
テレビやCDなんかと全然違う感動がそこにはあった。
ポルノは私が今日誕生日なんて知らないけど
メンバーにお祝いされたような気分になった。
幸せでしかなかった。
その日、私は携帯電話を自宅に忘れたが
メモることなく、自宅に帰るまでセトリを全暗記してさえいた。
当時の記憶力は凄まじいし、当時のポルノ愛は本当に強く濃く深かった。
後日、ライブグッズのストラップや髪ゴム等を購入し
私は通学カバンにつけた。
イナズマが三つ並んだ黒のごつめのストラップに、透明なキューブ型の髪ゴムだった。
私は友達に聞かれたら「これはポルノのライブグッズだよ!」とニコニコと伝えたし
聞かれなくてもまくしたてるように伝えた。
私にとって青春時代はポルノグラフィティだし
ポルノグラフィティは青春時代だった。
のちに、最終日横アリの写真がニューシングルの歌詞カードに載ったのも
それはそれはもう喜んだものだ。
白黒写真だし、あまりに人がたくさんいすぎて判別不可だが
この場に私がいたと思うと嬉しさしかない。
そのライブから間もなく、待望の3rdアルバムが発売された。
修学旅行前日である。
私は没収を恐れながらもCDウォークマンをバッグに偲ばせ
ブレザーなどでコードを隠し
コソコソとアルバムを聴いていた。
冗談じゃない。
修学旅行も大切だが、発売したてでアルバムが聴けないなんて、冗談じゃない。
私はそういう人だった。
三泊四日の修学旅行中、修学旅行を楽しみつつも隙を見つけてはアルバムを聴き
携帯電話でオリコンチャートを調べたりして
友達から半分呆れられた。
まぁ……中学時代に親友が福山雅治さん大ファンで
修学旅行先にもポスターを持っていき
部屋に飾っていたしな…。
誰かのファンというのは
修学旅行中であっても行動をやめられないのである。
小学生の頃、母親にライブを誘われた私は
その時はなんとなく恐くて断ったものの
こうして17歳の時に無事ライブデビューを果たした。
記念のチケットやライブグッズやカタログはまだ大切にとってある。
ライブの楽しさは知ったが
高校時代は受験で忙しくて金欠だし
大学時代はレポートに追われるし、色々なことにお金が飛び
社会人になれば多忙を極め
17歳でライブデビューをしても
それから10年間は細々としたものだった。
ライブは年に数えるほどで
ポルノ以外のライブもちょこちょこと行っていたが
ただそれだけであった。
転機は婚約破棄である。
26歳の時に婚約破棄をし、私にはお金と時間と悲しさが有り余っていた。
ちょうどその頃、職場の上司から、「有給を私用で使ってもいい。」と話があった。
当時働いていた職場は人手不足で
家庭や子どものこと、病院や体調不良以外で休みをとってはいけないという
暗黙のルールがあった。
社会人の友達が前に有給を使って仕事を休み
BUMP OF CHICKENのライブに誘ってきたが
いざ自分が就職すると
有給の取りやすさは職場によるところが大きいと知った。
結婚していなくて、子どももいない、下っ端正職員の私は
ちょうど都合のいい存在でしかなく
家庭のことで休む人達の代わりに、休むことなど許されなかった。
振替も人手不足から使いにくく
振替も有給休暇もどんどん期限切れになって捨てられていった。
「年間、有給休暇半分は消化していいよ。」
と主任は言った。
「いや、でも………」
と、私は言った。
今までダメダメ言われていたのが急に自由になっても
私は困った。
もし婚約破棄さえなければ旅行の一つでも行ったり、遊びにも行けたろうし
「俺と仕事、どっちが大切なんだよ?」なんて愚問も言われなかったのだろうが
もう婚約破棄はどうにもできない。
「行きたいところに行って、やりたいことやればいいじゃん。」
と上司から言われた時、私は頭にパッと浮かんだ。
それなら私、ライブに行きたい…
平日のライブ、仕事で諦めていたんだよな……
私の未来が、変わった瞬間だった。
「今日のライブはどこに行くの?」と上司から言われるほど
私が有給を使ってライブに行くのは当たり前になった。
半日仕事をして、早退して関東圏内のライブに行くことがいつしか当たり前になった。
そして昔は
ライブの際はタオルばかり買っていたが
大人になってから、ライブTシャツを買うことが増えた。
私の職場は
ライブTシャツを仕事着にすることが許されていた。
毎日のように様々なアーティストのライブTシャツを着て
私は仕事に臨んだ。
恋は上手くいかなかったけど
仕事は楽しくて
友達や家族は優しくて
ライブは最高で
こんな人生もありだと思っていた。
仕事とライブがあれば、私は恋愛が上手くいかなくても乗り越えられると思っていた。
2019年、ポルノグラフィティはデビュー20周年を迎えた。
ポルノグラフィティにハマッてからも
私はその後も様々なアーティストや楽曲に出会い
好きなアーティストはどんどん増えていったが
ポルノグラフィティが不動の1位であることは変わらない。
去年は仕事で大変なことばかりだったけど、そのたびにポルノは
ライブツアー、新曲発売、ヴィレッジヴァンガードコラボグッズ発売、喫茶ポルノ、ポルノ展、東京ドーム2Days、ライヴュ上映2Days、東京ドームスペシャルDVDボックス発売と
一年間を派手に盛り上げてくれた。
ポルノグラフィティという支えや楽しみがあるから
休日出勤やサービス残業や
パワハラやモラハラも耐えられた。
ポルノグラフィティへの愛を深めた私は
ようやく去年、ファンクラブに入会した。
周りからは「むしろまだ入ってなかったの!?」と驚かれたが
私ぐらいのファンで、ポルノファンを名乗っていいのか、ファンクラブに入会していいのか
何年も何年も悩んでいた。
それぐらい、ガチのポルノファンの力の入れようは凄まじく
私では太刀打ちできなかった。
16~17歳の私ならまさにそのレベルだったが
ポルノが一番好きであっても
様々なアーティストの曲を聞いたり、ライブに行くし
ポルノの歌詞を全て丸暗記をしたり
全楽曲を歌うこともできなくなった。
ポルノグラフィティは好きだけど
好きならファンなのだろうけど
私ごときでファンを名乗っていいのか?
ファンの質を下げないか?
ファンクラブに入ってさえいない私はファンとは言えないのではないか?
ずっとそう思っていたし
ファンクラブに入ったら入ったで、Twitterでのみんなのガチ感を目の当たりにし
私はまだまだだと思う日々だ。
だけど、そんなことを真面目に話しても、周りは言う。
好きならもうファンだし
心配しなくても
ともかちゃんのポルノ愛も相当なもんだよ?
そう周りから力説されるほど
私はいいのだと思った。
私はファンを名乗っていいのだ、と。
2020年2月、大好きな職場から退職するしかないと思い知った時
私の希望は3月頭のライブだった。
昭仁さんが両国国技館でライブをやる予定だった。
私が仕事で辛い時に
ポルノはいつも手を差し伸べてくれるな。
そう思っていたが
コロナウィルスの影響で
集団を避けるように言われ
ライブは悪にされ
3月頭のライブは中止になった。
あの時の絶望を、なんと表現したらいいだろう。
ライブは後にラジオ生出演に切り替えられたし
そりゃラジオも嬉しいのだが
生のライブに勝るものはないのだ。
アラサーになってから、プロアマチュア含め
平均して月に5回くらいライブに参戦していた。
仕事休みの日に家にいることはまずなく
毎月関東圏内のライブに参戦していて
今年は遠征もしようかなと思っていたら
ライブは全中止、全延期のお知らせばかりだ。
ポルノの他にも決まっていたライブは延期になり、中止になり
チケット代金を戻された。
お金が手に入ったのに、なんて空しいのだろう。
世の中はライブやライブに行く人を
まるで悪のように扱い
「きっと夏にはコロナが落ち着くだろう…。」と思っていた私の希望を
毎日毎日容赦なく摘み取っていった。
仕事とライブという、私の居場所で生きがいを奪われた私は
日に日に明らかに心身弱っていった。
前向きに明るく頑張ろう!
生きていれば必ずいつかライブに行ける!
そう春頃は自分に言い聞かせていたけど
世界も日本も悪化するばかりで
ライブは年内は厳しいことは明らかだし
来年以降も難しいだろう。
私はまさに空っぽだった。
無職で独身で30代で
一番の趣味のライブさえ、奪われた。
今年はなんて年だろう。
思い切り、ライブ楽しみたいな。
マスクもフェイスシールドもビニール膜もなくて
ライブハウス人ギュウギュウで
みんなで騒いで叫んで拳を振り上げて
思い切り思い切りライブを楽しみたい。
それで死んでもいいから
もう一度去年のようなライブを味わわせてくれ。
そう思いながらも
私が死んだらアーティストに迷惑かかるし
コロナの中ライブやったりしたら
アーティストが叩かれるし
アーティストがコロナに感染したら絶対に嫌だ!
と、必ず思う。
「胸張っていけ!自信持っていけ!」
「あんたらは最高じゃ!」
昭仁さんが必ずライブで言う言葉だ。
「広島は屈しない 決して屈しない」
ポルノグラフィティがチャリティーTシャツに直筆で書いたメッセージだ。
涙がポタポタとこぼれる。
その言葉の通り、真っ直ぐ生きたいのに
その言葉に励まされる時もあるけど
私は弱くて
やっぱり時々どうしようもなく
色々なものに押しつぶされそうになる。
こんな時に仕事があれば。
こんな時にライブがあれば。
そんな風になくしたものばかり浮かぶ日もある。
「嘘でも前に」
「心さえ軽やかにいけたら」
晴一さんの言葉が、私にいつも寄り添っている。
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