すべてを受け入れたら見えてくること

「あれはだめ、これもだめ。」

「それはいいし、そっちはもっといい。」

「自分は普通だけど、あなたは普通じゃない。」

「私は普通じゃないのかな。」

そうやって、自分の中にある眼鏡を通して見て、自分の中にある定規で測ってみて、”いい”とか、”悪い”とか、普通とかそうじゃないとかを、僕らはずっと判断している。

そう。判断しているんだ。

そんなに判断しなくてもいいのにね。本当はどっちがいいとか、どっちがよくないとか、そんなものはどこにもないのに。

言葉があるから、目の前にある”それ”にも名前があって、”それ”を「いい」とか「悪い」って言葉で、いいものにして、悪いものにしてしまっている。

すべてをありのまま、受け入れてみれたら、もっと世界は違って見えるんじゃないかなとも思ったりする。

言葉と向き合ってみると

言葉があるから、僕らは”それ”を言い表す言葉に引っ張られてしまう。

想像してみる。

言葉が使えないとしたら。生まれた瞬間から、みんなにとってそれが当たり前だったとしたら。

言葉が存在しない世界を想像して、今この瞬間だけ、ちょっと生きてみる。

言葉がなくなった。風が吹く音だけが聞こえるかもしれない。街中に行けば、車や信号機、人が歩く音だけが聞こえてくるんだろうか。

僕はその世界を知らないけれど、なんだか気持ちが悪い。(あら、判断してしまっている。今いる言葉がある世界が僕にとっての普通だから、言葉ない世界が普通じゃなくて、きっと居心地悪く感じてしまうんだろう)

もう一度、言葉がない世界を想像してみる。

僕の目の前に、コップがある。持ってみると、ぬるくなったコーヒーのまだある温もりを感じる。

ぬるくなったコーヒー。

これと向かい合ってみよう。

言葉はない。どこにもない。

でもあるものが、ある。何か。

心だけがないだろうか。

そこにはただ、心だけがないだろうか。いい感じか、心地よくないか。

その感情だけが、そこにはないだろうか。

ぬるいコーヒーを僕は何とも思わない。ぬるいなってただ思う。

あったかい時と少し味は変わったような気もするが、そこまで不快感はない。

でもまた別の誰かだったら、不味いって思うかもしれない。おいしくなくなったと思うかもしれない。

言葉がなければ、不味いも、美味しくないもないわけだけれど、その感情だけはある。自分の中だけに。

感じても、感じても、実際には言葉が思い浮かんできてしまうね。言葉があるから、言葉以外で僕らはこれらの感情を表現する方法を知らない。

知らないんじゃなく、慣れていない。言葉を用いることに、きっとあまりにも慣れすぎている。

言葉をなくしてみて、言葉と向き合ってみると、本当はそこに、いいも、わるいもないことがわかる。

ただ心だけがある。感情だけがある。感覚という言葉の方が近いのかもしれない。

言葉はただの手段

僕らは思ったよりも言葉にとらわれていて、言葉があるからできることばかりに思える。

でも言葉って手段だ。意思を伝えたり、共有したり、統一するために、その手段が必要だから、言葉が作り出されたことを忘れちゃいけないと思うんだ。

だから思う。自分にとって必要なことは、いい感じかどうか。心地いいかどうか。改めてそれだけなんじゃないかなと。

それを伝える手段、表現の方法として確かに言葉は優れている。

でも言葉に引っ張られすぎて、自分だけでなく、自分の言葉で他人を侵食しようとしたらお互いに苦しむ。

「なんでわからないんだろう?」

「普通こう思うよな。」

「当たり前じゃないか」

そう思うとは限らないんだ。自分が自分の言葉で強くそう思ってしまっているから、みんなと思い込んでしまう。

そうとは限らないんだよ。

一度言葉から離れてみる。言葉は手段で、そう言えば、自分にそう刻みこむように、その言葉が馴染んでいってしまう。

それはとても悲しいことだ。と思えば、その言葉が感情を強く認識させて、悲しくなってしまう。自分が悲しいと思うことで、誰かが悲しんでいなければ、何で悲しくないの?おかしいと思ってしまう。

悲しいという言葉にはグラデーションがある。悲しいという言葉で、すべての悲しいを一緒にしちゃいけない。

自分にとっての悲しいが、誰かにとっての悲しいとは限らないし、誰かにとっての悲しいが、自分にとっての悲しいではないこともある。

言葉で言い表せることなんて、きっとたぶん”これっぽっち”。

この”これっぽっち”だって、どれっぽっちなんだろうか。

だから、いったん判断せずに

すべてをありのまま受け入れてみよう。

自分の眼鏡を通さずに、自分の定規で測らずに。

「そういうこともある。そういうときもある。そういう人もいる。」

自分の見ている世界は自分にとっての世界でしかなくって。本当に本当に、他の誰かもまったく同じように見えているとは限らないんだ。

自分が「イケメン!」って思う人も、「え、そう?」って言われたこともあるはずだ。

そういうこともある。そういうときもある。そういう人もいる。

そうやって自分にとっての当たり前が、そうでないこともあって、そうでないときもあって、そうでない人もいる。

その上で、確かにそういうこともあるし、そういうときもあるし、そういう人もいるよなと思えると、どんどんとただありのままを受け入れられるようになっていって、いいとか悪いとか言葉に引っ張られず、判断することもなく、「あなたの考えもわかる。でも自分はこうなんだよね。それもまたいいよね。」と思えるようになっていく。

そう思えた方が、楽じゃないかな。

自分は自分であって、でも世界は一つじゃない。一人一人に見えている世界があって。いや、もしかしたら世界は一つしかなくって、それをそれぞれがそれぞれの見方で見ているだけなのかもしれない。

自分があって、世界がある。という感覚ではなく、世界という一つの中の、ほんの一部分として自分がいるんだと思えるのかもしれない。

そう思ったら余計に、すべてを受け入れられる。楽でいられる。

自分が主体である必要がなくなっていく、ような気がする。

自分も、ただの言葉だから。自分という言葉があるから、なんとなく自分ってものがある気がして、自分にとらわれている。

違いとか、差とか。そういうものにとらわれなくなったら、それが自分の人生を生きるということになるのかもしれない。

そのための方法が、すべてを受け入れてしまうことのように思える。

すぐにはできないよ。ゆっくりと自分に馴染ませていく。

人に会って、本を読んで、旅をしよう。

そうしたら本当に自分だけの見方ではなく、世界にはありとあらゆる見方があって、本当にたくさんの世界があることを知る。

そうしたら、きっとみんなが味方のように思えてくる。

小さなことから受け入れてみよう。目の前にいる人でもいい、隣にいてくれる大事な人のことでもいい。自分のことから始めるのがきっと一番いい。

そういうこともあるよな。そういうときもあるよな。そういう人も、そういう自分もいるよなって。

ただ見て、ただ感じて、ただ思って、ありのまま受け入れる。

いい感じでいるために。自分の心地いいを広げていくために。


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