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初詣大作戦・後編

前回までのあらすじ

鉄道が開通して行楽をかねて川崎大師に参詣する人が増えました。

鉄道を使って初卯、初不動、恵方と関係なく川崎大師に参詣する人が現れるようになりましたが、官営鉄道(官鉄)は特に積極的に参詣客を誘致するようなことししていませんでした。

しかし、これにビジネスチャンスを見出した一人の人物がいました。

その人物とは、大師電気鉄道(京浜電気鉄道)の代表の立川勇次郎。

明治21年頃、弁護士をしていた時に知り合った野口元之助らと共に、彼は電気鉄道敷設計画に参加し、政府に電気鉄道敷設を請願しましたが、

政府に「時期尚早」と却下され、九州で石炭業を経営していました。

しかし、明治23年。
請願運動をしていた時に知り合いになった、当時の日本における電気工学の第一人者・藤岡市助が第三回内国勧業博覧会で、実際に上野で電車を走らせ電気鉄道に注目が集まるようになると再び上京し、藤岡や電気鉄道同盟を結成していた雨宮啓次郎らと手を結び鉄道敷設を再請願、

明治31年に大師電気鉄道株式会社(翌年に京浜電気鉄道(株)に変更)を設立しました。

そして川崎大師の参詣客を見込み、明治32年(1899年)に

川崎六郷橋ー川崎大師間

わずか2キロの距離の路線を開通させました。

川崎停車場から歩いて川崎大師に行くよりも便利な事から、この路線は大成功。

正月に川崎大師への参拝客は増加したのでした。

そして5年後の明治37年。

立川勇次郎は、毎年各地から参拝客を集めるために

品川ー川崎ー川崎大師

と品川まで路線を延長しました。
そして、すでに走っている官営鉄道(略して官鉄)に対抗するために運賃の値下げを行ったのでした。

そして迎えた明治38年の正月。

「従来に比して二割近く低減なれば従て大師穴守参詣者及び近郊遊覧者を誘発し、結局会社の増加するに至るべし」
万朝報(当時の日刊新聞)
に記事が書かれるように大成功を収めました。

その後、立川が同年12月に

川崎ー横浜間

を開通。

ライバル心を燃やした官鉄は、これに対抗するべく、同年27日に

「京浜電鉄との競争のため」に新たに「最急行列車」を新設し従来55分から60分かかっていた新橋ー横浜間を一気に27分に短縮させました。

さらに正月の大師参詣客輸送でも京浜電鉄に対抗するために39年の元旦の

新橋ー川崎間

の往復乗車賃を、前代未聞の5割引価格にして反撃にでたのでした。

そして迎えた39年の元旦。

京浜電鉄は、午前4時半発の電車の時間には停車場に人の山を築き、一時電車が不足する騒ぎになり、また官鉄も京浜に及ばないながらも「汽車も一杯」という繁昌ぶりになりました。

この後も京浜電鉄と官鉄は参詣客誘致のために様々な手段を講じ競い合い、川崎大師参詣はますます盛んになっていったのでした。

この結果、都市市街地から郊外に延びる路線を有する鉄道各社も真似をして郊外行楽の楽しさと参詣をセットして参詣客誘致を行うようになりました。

そして、京都、奈良、大阪と神社仏閣多い関西の鉄道会社も関東を真似て初詣のPRを始めました。

その結果、沿線の神社に客を呼び込みたい鉄道会社にとって、5年に1度方位の変わる恵方詣は宣伝広告に使いづらかったので、

「恵方詣」の代わりに「初詣」を活用するようになり、「恵方詣」は廃れてしまったのでした。

そして、初卯、初不動や恵方に関係なく神社に参詣する初詣が都市部から全国に浸透したのでした。

ちなみに成田鉄道と京成電鉄も参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社だそうです。

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