大戦秘史 リーツェンの桜・1 ~ 戦時下ドイツのサムライ ~
今回から不定期に三回くらいに分けて、自分がもっとも、その生き様に感銘を受けた人の話を書いていきたいと思います。
結構長くなりますが、付き合っていただけたらと思います。
そして1945年(昭和20年)3月18日。
第二次世界大戦末期。
連合軍の攻撃で陥落直前のベリルンにおいて日本大使館は、ベルリン滞在の日本人を召集しドイツ南部のザルツブルクに避難させることにしました。
しかし、この日、ドイツ大使館に現れなかった一人の日本人がいました。
彼の名は肥沼信次。
日本からドイツに留学していた医学博士でした。
1908年(明治41年)八王子市内にあった肥沼医院の長男として生まれた彼は、1928年(昭和3年)日本医科大学に入学、
卒業後の1934年に東京帝国大学医学部放射線教室に進みました。
それから3年後、1937(昭和12年)年にドイツに留学し、ベルリン大学(正式名フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学。現フンボルト大学)の医学部放射線研究所に入りました。
肥沼が留学した当時のドイツはナチスの政権下で、ファシズムの嵐が吹き荒れていました。
彼がドイツで研究員になった時、ヒットラーは小学校~大学までナチ化を図っていました。
37年の公務員法で教師に対し
「アルドフ・ヒットラーに忠誠を尽くし、服従すること」
を宣誓させられ。
後に、ヒットラー第三帝国を支える強力な組織SA(突撃隊)か労働奉仕団かヒットラーユーゲントを勤めたものでないと教職につけなくなりました。
そして大学の教師となる志望者は、ナチスの専門家が志望者が適正かどうか判断し、教師免状を交付している状態でした。
ナチ公務員法による制度の最初の五年でドイツの大学で罷免された教授、講師の数は総数の四分の一にのぼる
2800人
にのぼりました。
そんな中、ドイツに留学した肥沼は、放射線研究所で数々の研究成果を上げ、
約2年後の37年7月19日に
アレキサンダー・フォン・フンボルト育英財団の交換奨学生
になりました。
その後も、数々の論文を発表、研究成果を上げ1944年10月に東洋人として初めて
教授資格
を取得しました。
当時、多くの人がナチに妄信しする中、彼はナチにへつらうことも同調することもなく
日本人
であることを貫き通しました。
そして、44年2月15日
肥沼は研究助手代理からギゼラ・ヘンケッシュ博士の見習助手になるに際して督学管に宣誓書を提出されたらた時に次のように宣誓しています。
「私は純潔な日本人であり、日本国籍を有することをここに宣誓いたします」
と、
そして、ドイツの敗北が濃厚となった1944年(年)4月20日、フンボルトハウスで
「日本における自然科学 欧州の影響と独自の研究結果」
という題で講演を行いました。
アイリンこそ最も優秀な民族であり、他の民族は
無能、軽蔑、否定、撲滅
の対象として見下していた、ナチス・ドイツの支配化の中で
肥沼は
「我々はヨーロッパ自然科学の生み出したのと同じ能力を日本民族も前々からもっていると考える」
と「日本民族の優秀性」
を強調し、
関孝和(和算でニュートンとほぼ同時期に高等微積分学と同じ計算式を考案)
を始め
世界初の人工癌発生に成功した市川厚一
実験癌として研究できるようなラットの腹水癌=吉田肉腫
を発見した吉田富三
世界で初め人工雪の生成に成功し、気象条件と結晶が形成される過程の関係を
解明した
中谷宇吉郎
などの優れた日本人の研究者を紹介し
(また彼は湯川秀樹がノーベル賞をとる5年前に彼の中間子論を高く評価していました)
アリアンの優位性を認めない姿勢をあらわし
「日本の自然科学の研究者たちは、ヨーロッパの仲間に匹敵」し、
「もはや弟子ではなく同等の研究者として活動できることを誇りに思ってよい」
と言い切りました。
教授資格を目指している最中での、この真の勇気ある発言をした彼は、まさに
「日本人の中の日本人」
であり
「真のサムライ」
でした。
つづきます
参考資料・サイト
『大戦秘史・リーツェンの桜 』
館澤貢次著 ぱる出版
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