読書感想文 その4 『A4 または麻原・オウムへの新たな視点』(現代書籍) 著:森達也 〜“IT(それ)”から“YOU(汝)”へ。あなたの隣の宗教論〜
去年のクリスマスイブに私は、【読書感想文 その3 『A3 上・下』(集英社文庫) 著:森達也 〜オウムを知らない子どもたち〜】というタイトルのnoteを投稿しました。
〜そんな時節に何してるのやら。〜
その中でつづいて『A4』もと思いつつも、お腹いっぱいということで後回しにする旨を記載しましたが、2週間くらい前でしょうか図書館に並んでいたので読んできました。
というわけで、『A4』読了。
ただ読んだのがちょっと前になってしまったので、少々フワついた感想文になってしまう気がします。それはそれで軽妙に書かせていただこと思いますのでご理解ください。
内容としては森達也による、元オウム信者深山織枝(みやま・おりえ)と早坂武禮(はやさか・たけのり)への対談形式のインタビューを起こし、文書化したものになります。
目的としては元信者の証言から一連の事件が発生した原因や、オウム真理教内部での出来事、変遷、事情、信者の心の動き等々、内側から見た内情にも焦点を当て、これまで全て「悪」というレッテルで封じられてきた箱を開封し、新たな視点での真実に迫ろうとするもの……などと言えると思います。
〜映画『A』『A2』を観ると、信者一人一人は極めて“普通”であることはおろか、優しく柔らかな物腰の方が多い印象を受けます。広報副部長荒木浩が、施設に押し寄せた住民から「教祖の写真を踏め」と指示された時、「私は誰の写真も踏みません」と答えたのは印象的でした。〜
1.入信(入会のきっかけ)〜“IT(それ)”から“YOU(汝)”へ〜
深山と早坂は、諸々の事件へは関与しておらず、サリン事件直後に脱会していますが、そもそもなぜ入信(入会)したのでしょうか。
深山は1986年、前身の「オウム神仙の会」というヨーガ研究会時代に入会しており、翌年出家信者(サマナ)として最終解脱を志す修行に入ります。彼女は当時、ランチのために東京から京都へ出向むような、昼間の時間を無駄につかい夜働くような、高度経済成長を遂げバブルで浮かれた生活スタイルに虚しさを感じており、そんな心理状況が自分の内面を探す旅、精神的な世界を志す一要因になったと語っています。
早坂は1989年に入信しており、元々は雑誌の記者をしていたそうです。後に結婚(後に死別)する信者女性に誘われて入信したということですが、当初はさほど熱心な気持ちはなかったとのことです。職業的な好奇心かと言われればそれもありつつ、バブル経済、そして崩壊、揺れる社会の中自らが進むべき道を見つけ出せない中で、麻原の説法可能性を見出し、さまざまな報道に目を通しながらも、バランスをとって接するようになったと語っています。
〜その後婚約者の死をきっかけとしてより深く入信していきますが、こちら割愛します。〜
今でこそ上下関係の否定、リテラシーの重要性、個人主義の優位などが堂々と語られたり、SNSやYouTubeを駆使した告発など、内面の表出を許されたツールが増えています。また占いやスピリチュアルのような世界観がある程度浸透している昨今と違い、日々内側に抱いている社会生活での不安が理に適った形で言語化された時、それが一個人に与える影響は格別なものがあったのではないかと私には思えました。
以前宮台真司が言っていて(マルティン・ブーバーの論からの引用だそうですが)、日々の仕事などの「システム社会」の中で人は「IT(それ)」として扱われます。しかし家族や親友間のような「生活社会」では「YOU(汝)」と捉えられます。要するに「IT(それ)」は、替えが効くいわば“駒”のような存在で、対する「YOU(汝)」は入れ替えが不可能な存在です。
〜「システム社会」と「生活社会」の語は、哲学者ユルゲン・ハーバーマスの「バトルフィールド(システム社会)」と「ホームベース(生活社会)」からの引用。〜
人は元来「IT」ではなく「YOU」であり(を求める生物)、自らの価値観、独自性を持って生きていますが、生産性を求める社会は多くの「IT」を生み出します。現代のように多様性や個性的な能力を尊重する社会においても、輝かしい「YOU」の出現は絶えずその裏に替えが効く「IT」を生み出しており、むしろ現在のように誰もが才能を発揮するチャンスがある世の中において、才能を認めてもらえないと感じる時に抱く“差”の感情は、個々人にさらに強固な“IT感”を芽生えさせると考えられます。
自分には替えがあるという恐怖や虚無感から逸脱しようとする挙動は、昨今のスピリチュアルブーム(パワースポットとか)からも見受けられ、これが当時の場合新興宗教や自己啓発セミナーのようなものに集約されていたと考えると、私は彼らの行動を自然に理解できる気がしました。
〜ただし、二人の入信(入会)理由は上記したほど簡潔なものではありません。そこにはもっと複雑な心情が絡み合ってのものですので、良ければちゃんと読んでみてくださいませ。〜
なお、「IT(それ)」と「YOU(汝)」なる論理展開をさせていただきましたが、オウム真理教は輪廻転生からの解脱を志す、仏教的概念を軸とした宗教です。その為出家信者(サマナ)である彼らは、現世における「YOU(汝)」という存在から解脱し、魂のレベルでそこに到達しなくてはならない……ということになる……と思われます。。
〜宗教人じゃないのでここは解釈しきれません…アヤフヤでごめんなさい。〜
2.組織の暴走〜宗教が持つ「生」と「死」との親和性〜
『A3』の中でも森は組織の暴走について論じます。そしてこの組織の暴走の根本にある部分を、盲目である(とここでは断言します)麻原彰晃にとって、幹部信者だけが重要なメディアとなり、麻原当人はレセプター(受容体)になっていたから、ではないかという論を説きます。幹部にあたる弟子は麻原の思考や予知に隣接した重要な情報を報告し、役に立つことが組織内部での仕事であり、権威を持つ幹部としての役割である。そういった組織への“帰依心”が弟子(幹部信者)の暴走を生み出した。つまりは弟子たちの暴走により組織は過激化していったという説です。
例えば幹部の井上嘉浩が旧・上九一色村の第6サティアン上空のヘリを見上げながら「米軍がサリンを撒きに来ました」と麻原に電話をし、麻原は「やはり、そうか」と答えた。その時井上の横で、関係のない信者は首を傾げるわけです。この説には元信者両名とも、実際の内部の雰囲気と照らし合わせて、ある程度の理解を示しているように思えました。次に森は宗教と殺戮の親和性についても説いています。
かなり要約しますが、死後の世界を担保するという意味で①宗教は生と死を等価値にし、つまりそれは②死を肯定することにもなり得る、ひいては③死することの価値が生きることよりも上位にきてしまう、という物です。これらをオウムの教義に照らし合わせると、私が解釈するには、①生きていても魂のレベルを下げてしまう者は殺害しより高いところに魂を上げる、②殺害した者はされた者のカルマ(業)を代わりに背負い修行、③カルマ(業)を払い解脱を志す、という流れです。俗にいうポアってやつでしょうか……。なおカルマ(業)を背負うことはマハームドラー(試練)の枠組みに入るようです。
森は人は宗教を手放せないが、危険性は内在しつづけると主張します。対して元信者二人は、この宗教と殺戮との親和性について同意はしませんでした。
3.「宗教」とは?〜信仰?、宗教?、飽和する宗教概念〜
森の一連の論に対して早坂は「宗教の定義はその人の生き方そのもの」であり、森論は「多くの人の生き方に影響を与えている既存の経典や宗教団体の教えの中の、現代科学で考えたときに合理的と判断できない部分を指している話だ」と答えています。深山は「死を意識することで逆に真剣に生きることができる」「カルマ(業)によって来世が決まるであれば、現世をおろそかにできない」「死後の世界を語る=危険は、乱暴な意見」と主張します。
加えて二人は麻原彰晃が如何に宗教家として勉強熱心で、真面目な人間であったかを語ります。一通り読んでみますと、確かに仏教、チベット密教、非常に勉強家な一面を認めえる内容であり、宗教的な用語が多く私の力では綴りきれませんが、麻原は熱心な研究家であったことが窺えます。またこのセクションでは、仏陀、アートマン、釈迦牟尼、などの仏教用語が豊穣に飛び交う宗教論議が繰り広げられます。
先も記したように、私は宗教人ではないので理解に苦しみました。ただ、森が「宗教」の仕組み(教義)、群れが持つ全体的な危険性という視点から話をしているのに対して、個人の正しい「信仰」の在り方のようなものを回答をしているように思いました。
僭越ながら少々持論を挟ませていただきますが、私は「宗教」という日本語は、意味の飽和状態にある気がしています。というのは、それが教義を指すのか、団体を指すのか、そのような行動を指しているのか、使い方や捉え方によって、差異が生じているように思うのです。私が早坂と深山の発言を「信仰」と表したのは、日々の生活における宗教儀礼・行動の上手な取り入れ方、付き合い方という風に感じたからです。
そして、そんな二人はこの“団体”を抜け出すことになります。
4.脱会へ〜それでもやっぱり“信じる者”〜
早坂と深山の二人は組織の肥大化により、真剣に個人修行に励むことができなくなった状態に疑問を感じるようになりました。深山は松本サリン事件後に脱会の相談をした際、薬物と電気ショックにより記憶を飛ばす「ニューナルコ」を施され、「シールドルーム」という修行部屋にて単独修行に励むことになります。
早坂は事件後麻原が逮捕された直後(この時点では一連の犯行がオウムによるとは確定していない)、修行班が雑用に駆り出されるなど、修行に集中できる教団でなくなったことにより脱会(というよりは施設を抜け)し、同時に深山も脱会します。
〜それ以前にヘッドギアで有名なPSI(パーフェクト・尊師・イニシエーション)が一般修行僧に降りてきた時、これはLSDを使用するものであり、この辺りから懐疑心が生まれていた、という話もありました。〜
しかしやはり“信じる者”。
深山は「ニューナルコ」の施術に納得していなかったにも関わらず、出家とはいえ100%世俗から放たれるわけではない中で記憶を飛ばし、効率良く修行に取り組むための療法だったと語ったり、麻原が逮捕された隠し部屋が施術された部屋のすぐ下であったことを逮捕後に知り「見守り、エネルギーを与えてくれていたと思っちゃった」とも発言しています。他にも東日本大震災の前日、麻原が夢に出てきて地震を教えてくれた経験談なども語られます。
私は麻原の超能力や、信者が感じたエネルギーや奇跡体験にどうこう言えた義理はないですし、否定する気もありません。何ならそういった目に見えないエネルギーたる何かや神秘体験には興味があるくらいです。ただ、やはり二人とも「“信者”だな……」と思いました。奇跡的な体験というのは、過去を細かく探せば意外とある物です。私はその一つに「ご縁」というものがあると思います。深山の体験談はまさに「ご縁」なんじゃないかと思います。そして彼女は “ご縁実感装置” になっているように思いました。
この装置となった人は前述した「IT(それ)」から「YOU(汝)」に即席で化すことができます。そして一度「YOU(汝)」にしてもらった人間関係から抜け出すことは、なかなかに勇気がいるものです。一から作り出さなければならないわけですし、一度根付いた思想はそうそう離れません。周辺のコミュニティがすでに別々に形成されている大人の社会になると、余計困難になります。
しかしながら、人々は大概様々なご縁に助けられて生きているはずです。私も沢山のご縁に支えられながら、これまでを生きてきました。なので安易に否定はできません。各ご縁との適度な距離感、これは永遠の解題なのかもしれません。
5.まとめ
まずこの記事、かなりざっくりとだと思ってください。この対談の中ではメディア問題、宗教問題や概念、オウムの変遷や教義、実情・内情、周辺の社会問題、、あらゆる話題が高密度かつ絶妙なシンパシーを持って語られています。実際に読んでみますと、私とは違った印象や、読解も出てくることかと思います。
ただ今回は読んでいて感じた、現在も常に潜んでいる疑問として①入信(入会)のきっかけ、なぜ事件が起こったのかという考察として②組織の暴走論と宗教が持つ生と死の親和性、どうしても外せなかった「宗教」そのものについての論議③「宗教」とは?、まとめと全体の統括も含めて④脱会へ、と綴らせていただきました。
ところで最近、駅にこんなポスターが貼ってありました。
後継団体の「Aleph」と上祐史浩の「ひかりの輪」の文字も大きく記載されています。ところで、なぜ画像検索のスクショなのかといいますと、写真を撮ろうと思っていたら剥がされていたからです。明確な理由はわかりませんが、団体規制法の対象とはいえ、二団体とも法人格を有さない一般の団体です。ポスターを見ていて疑問を持っていましたが、その辺りで抗議などあったのかもしれません。
⇨訂正(2021.6.15):場所を変えて貼ってありました。コンコース外から内側になっており、なぜかグシャグシャでした。
「事件を風化させちゃいけない」のはその通りですし、彼らの存在も、過去の犯罪も、知っておくべきです。宗教が有する危険も知っておくべきでしょう。ただ一方的な差別や偏見違うと思います。多種多様な思想があって構いません。皆が自由に選択し、楽しく生きていけるのならそれで良いと思います。ヨガ教室や宗教等思想の研究会が、一般の方に宣伝や発表をしている行為自体はおかしなことではありません。
ただ気をつけるに越したことはないわけで、道を見誤らないためにも様々な知識と、思考を持ち合わせて行きたいと思う、今日この頃です。
終わります。