見出し画像

#93 お金と愛について

 暑い日が連日続いて、ひたすらぐったりしている。でも、たぶん温度のせいだけではないことをわたし自身がしっかりと認識している。ポッカリと心の片側が穴が空いてしまったようになっていて、息を吸ってもうまく呼吸ができない。

 うまくいかないなと思うことが最近あって、それがより一層感情を強く傾けていただけに、自分の行動の浅はかさを恥じるばかり。人の心はどうしたってままならない。そこを突き抜けて、水がポタポタと床に滴り落ちている。どうして、自分の中でもダメだと警告を発しているのに、突き進んでしまうんだろう。

*

 近頃、ただひたすら時間があれば、本を読み続けている。うまく自分の物語を紡ぐことができない。何かをしたいという衝動の炎が消え失せている。最低な自分をひた隠しにするために、ひたすら本を読み続け、時折いつもの決まりきったメンバーでひたすら飲み、そして次の日になってカレーを食べにいくという日常。ぐるぐる、キリキリと生活を過ごしている。

 何冊も無作為に手に取る中で、これまた図書館でライザップをしているおりにたどり着いた一冊の本。『東京貧困女子。: 彼女たちはなぜ躓いたのか』というタイトル。「貧困」という言葉が目についた。幼少期、贅沢な暮らしとはいえないが、わたしはほとんど不自由のない暮らしをさせてもらっていた。学校についても結果として公立は落ちて私立に行くことになっても、親は嫌な顔ひとつせずに送り出してくれた。今振り返ると、それがどれだけ幸せなことか大人になった今だからこそわかる。

 見下すのは自由だし、かまわないけど、なぜ若者たちがその選択をするのかという理由くらい察して欲しいということだろう。

『東京貧困女子。: 彼女たちはなぜ躓いたのか』中村 淳彦 p.47

 本作品に登場する人たちは、みななんらかの事情により、食べるものさえままならず、生活に苦しむ人たちの姿が実際のインタビューを通して描かれている。彼女たちが追い詰められてしまう状況は、それこそさまざまだ。親の育児放棄、家庭崩壊、そもそも親が低所得による皺寄せ、学生ローンの支払い、付き合っていた人からの裏切り。

 わたしがいつも当たり前のように享受していた「普通」の日常生活は、決して「普通」ではなかったのだということを思い知らされる。特に女性が手っ取り早くお金を稼ぎ、生活苦から逃れるには風俗があるのだという事実に対して打ちのめされそうになる。性風俗に対してあまり良くないイメージを持っている人もいるのだろうけれど、それしか生きる術がない人たちもいる。

 結果的に、お金がないことによって追い詰められた人たちは、時には精神を病み、なんらかの依存症に走り、そして引き返すことのできない暗澹たる道をひたすら進んでいく。迫り来る暴風雨、雨戸を閉めて雨風を凌ぐこともできない。じわじわと真綿を締め付けられるように、にじり寄ってくる。

 昔、わたしが社会人になってすぐくらいのタイミングで、同じように色々な事情が重なって明日食べるものもどうしようかと考えるくらいに困窮した時期があった。その時のことを思い出すと、今では笑い話にできるくらいになったが、当時は毎日がしんどかった。寝ても覚めても、明日どうしよう、という絶望の渦がとぐろを巻いている。

 お金がない、ということは心の余裕をなくす。何かをする気力も奪われていき、それはひたすら奈落の底に落ちていく、ということなのだろうか。「女子がカラダを売って、男子が犯罪に走る若者の貧困は、大きな社会的損失を生んでいる」という文章を見て、比較的先進国と言われている日本でさえも、こうした格差が生じている。いや、むしろ先進国であり資本主義であるからこそなのだろうか。

*

 もう少し貧困というテーマについて知りたくなり、『貧困世代 社会の監獄に閉じ込められた若者たち』という本を手に取った。所持金がほとんどなく栄養失調状態の青年、生活保護を受けて生きる女性、脱法ハウス(レンタルオフィスという名目で住む部屋)で日陰の中に生きる社会人。

 満足に社会保障や社会福祉を受けることもできない現状がそこにはあった。例え両親がいても、彼らに頼ることのできない状況。学生ローンは利子が高く、返しても返しても減らないという現実。例として社会福祉で働く人たちのケースがあったのだが、重労働な上に低賃金、やりがい搾取とまで言われている環境。

 本人の努力だけではどうにもならない世界がある。昔であれば良い大学を出ていれば、良い就職先が見つかると言われていたが、今はそんな時代でもなくなってしまった。もともとの環境により、そこから這い上がるのはなかなか一筋縄ではいかない。そうだ、これは決してフィクションではなくてリアルなのだ。

 お金って、時に卑しいものの象徴として扱われることがあるが、その実今の日本、いや世界の状況としてもうお金なしには豊かな生活を送ることはままならない。

*

 お金じゃ、愛は買えないよ──。

 小説でも映画でも、何かの呪文のように登場人物が唱える。わたし自身も、昔はそう思っていた。し、今でもそう思いたい気持ちはもちろんある。お金で買うのは、あくまで普通はものであるべきだ。お金によって、人の心は買うことができない。金の切れ目が縁の切れ目なんて、悲しすぎるじゃない。

 でも、大人になって、やっぱり物事はそう綺麗事ばかりでもないのかもしれない、と思ってしまう現状がある。確かに、お金で愛は買うことができない。よくお金持ちと貧乏な人の恋愛物語なんていうのがあったけれど、そうした格差があればあるほど燃え上がる恋というのもありがちながら、彼らの仲を引き裂くのはどうしたって、突き詰めると「身分」の違いということになる。

 あなたとは住む世界がチガウノヨ、というのは心配した親なり友人なりが貧乏な恋人に放つ一撃必殺の名台詞であるが、そうした周りの反対を押し切って幸せになるかというと、なかなかそうも言っていられない現状がある。

 それは、おそらく一つには心の余裕なのではないか──。

 片一方がお金を持っており、裕福な暮らしが約束されているなら良いが、その逆は救いがない。お金がないことにより、明日はどうするかということが死活問題になる。そうすると、相手を思いやることができなくなる。愛とは何か、一つにはやっぱり相手を思いやること、大切にしたい、ある種湧き立つ情熱のようなものだとするのであれば。

 その源泉となる泉は、心がある程度余裕があることによってこんこんと底から湧き出してくる。例え相手を愛していたとしても、お金がないことによって生活苦に嘆き悲しみ、感情のキャパシティがそちらに振り切れてしまう。

*

 昨今わたしたち世代で出会うためのツールとして活用されているマッチングアプリでも、必ずと言っていいほど相手の年収について記述する欄があって。マッチングする際には、そうした相手がどれくらい稼ぐかによっても基準があるということ。もちろん愛が芽生えるのは、お金だけではないにしても、一つの土壌を築き上げるものである、というのは恐らくまごうことなき事実であろう。

 でもね、一方で思うこともある。お金はあればあるだけ、人の心を変えてしまうという側面も持ち合わせていることに。それは持ち手にもよるのだろうが、毒にも薬にもなりうる。お金に魅入られ、それにしか生きる基準を持つことができなくなってしまった人は、それはそれで悲しい。

 かつて明日はどうやって生きようか不安に思っていた時から比べると、今のわたしの生活は普通に心配なく生活することのできる水準になり、改めて今は思えるのだ。

 お金がない生活は苦しい。でも、お金にしか囚われなくなった生活も、それはそれで辛い。何事も、適度な分量がある。全てはうまい調和のもとに成り立っている。愛も、過剰に傾けすぎてはいけない。

 平穏でいられること、それが正しい愛を示す心のあり方のように思う。


故にわたしは真摯に愛を語る

皆さんが考える、愛についてのエピソードを募集中。「#愛について語ること 」というタグならびに下記記事のURLを載せていただくと、そのうち私の記事の中で紹介させていただきます。ご応募お待ちしています!


末筆ながら、応援いただけますと嬉しいです。いただいたご支援に関しましては、新たな本や映画を見たり次の旅の準備に備えるために使いたいと思います。