#100 no title (愛について語ること)
──誰かを、心の芯からきちんと想うこと。
そういえば、昨日中秋の名月だったことをすっかり忘れていた。最近、なぜだかわからないけれど、心の奥の方がぽっかりと穴が空いたようになっている。ゆったり浮上し、時には沈み込みながら生活をしている。今の自分の足りないものは何かと思って、空を見上げると、ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。
さてさて、ついに当初目標に掲げていた#愛について語ることシリーズも最終回を迎えるに至りました。これまでお読みくださった皆様、本当に本当に、拙文ながらも長々とお付き合いいただき誠にありがとうございました。まさか始めた時はこんなにも終わるまでにながーくかかるとは思いませんでした。
……とまあ、前置きはこれくらいにして。タイトルは散々悩みましたが、結局よき題名が思いつかず、書かないことにしました。これまで自分が語ってきたさまざまなものや人に対する愛、そして私の企画に乗ってくださった人たちが語る愛。今改めて思い返してみると、これほどまでにみなさんが感じる愛の形って、違うんだなとしみじみ思います。
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時には迷い、時には恐れ、時には何かパッと目の前が開けるような、そんなものを改めて愛という言葉と見つめ合うことによって、得られたような気がします。たぶん愛というのは目に見えないものだけれど、人々の生活に必要なもの、空気みたいなものだと思うんです。ふだんは意識することがないけれど、ないと生きていけないもの。
愛の対象は、自分にとっては注ぐ存在であっても、他の人にとってはそうでないことも多い気がします。情熱をかけて注ぐ趣味もそうだし、人だって、その人にしかわからない魅力、何かで不意に接点を持って気がつけば感じていたこともあるだろうし、その子が生まれ落ちた瞬間から愛しくて愛しくて、目に入れても痛くない存在として愛を注ぐこともあるだろうし。それって、他の人からすると理解できない部分もあると思うんですよね。
パズルのピースみたいなものかもしれない。本当にピッタリはまるものって、そのピースを囲む四方だけ。突き詰めていくと、もしかしたら端っこになっていて、もっと繋がる部分が限られていくことだってある。思うんです、たくさんの人に愛を注ぐのって大変なことだって。だって、それだと疲れてしまうしなんだか節操のない感じがするじゃない? 慈愛の心で生きていたマザー・テレサは別だと思います。彼女は、私にとって雲の上のような存在。
少しずつ、コロナが収まっていくにつれて私は時には友人たちと出かけたり、時には一人で時間の許す限り、旅をしました。数としてはそれほど多くないけれど、今でも頭に思い浮かぶのは「日常」なんですよね。忙しない人々の喧騒の中で溶け込む自分、山を登って頂上を見つめる自分、家でコーヒーを注ぐ自分。その対象が自分だけっていうのは悲しくて、やっぱり心が温かくなるのは私のそばにいる人たちと過ごす時間です。
ふと、窓を開けるとそよそよと吹く風からほんの少し香ばしい匂いを嗅いだときとか、パチパチと頼りなげに降る雨とか、柔らかく草原に斜めに注ぐ光だとか。そうした文明が生まれる前の原点で見た美しさを、誰かと分かち合う瞬間、それこそが愛なのかもしれないと思うんです。
確かな愛というのは、片方だけの独りよがりなものではなくて、必ず双方向のやり取りがあって初めて成り立つもの。きっと絶妙なバランスで成り立っていて、そのバランスが崩れた瞬間、時には憎しみに変わってしまう可能性だってある。愛は、適度の距離を置くことも必要だったりする。誰かをきちんと愛する、って言葉で言うのは、簡単だけどそれを実践しようとすると本当に難しい。だから、考えて訳がわからなくなって、結果何か心がぽっかり空いたようになってしまう。
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生きることの難しさについても、最近よく考えます。ベランダで育てている植物にふわりと蝶や蛾が舞い、その数日後には芋虫が葉を齧っています。私はその度に恐々としながらも、彼らをピッと取って、放る。ピッと取って、放る。彼らには食べるものがなくなるから餓死する。ごめんね、と心の中で唱えます。彼らも生きようとしているのに。無慈悲で、ごめんね。
次の世代に伝える=子どもを産む、ということがでは生きることのゴールなんでしょうか。ひとつ、またひとつ年齢が上がるたびに、次第に恐怖が迫り上がってくる。死ぬことについて考える。もしかしたら死後の世界もあるかもしれないけれど、そんなもの生きている間は絶対に体感できるものではないので、それを考えて怖くなるんです。
たぶんそうした、心の片隅に巣食う黒い部分を救うのもまた、誰かと一緒にいる時間であるとか、それから何かに情熱を傾けている時間だと思うんですよね。適切な愛によって、心や感情がさらわれていく。その密度と深度は、どれだけ時間をかけたかということも関係してくる。きっと、一朝一夕ではいかなくて、積み重ねなんです。信頼関係を築く中で、芽生える。それは決して一筋縄ではいかない。
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先日、ふとしたことがきっかけで、『愛の不時着』を観ました。私はこのドラマが話題になった当初、なぜか目もくれずにインド映画を見て踊ってばかりいたのですが、最近観てこれまで観なかったことを深く後悔しました。それだけ、これまで生きてきた中で観たドラマの中でも三本の指に入るくらいに素晴らしかったから。よく、ロスになるっていう人がいて私はその心情を慮ることができなかったけれど、それがようやく実感できました。
いくつもの障害だとか、同じ経験をしてきた中でゆっくりとお互いを知り、そしてその人のことを見ると温かい気持ちになって、たとえば遠く離れていてもその人の身を案ずるだとか、幸せになってほしいだとかそうゆうことを思うことの感情全てが、愛という言葉で定義づけられるんだろう。
ドラマを全て見終わってしまって、全部でだいたい24時間くらいの尺があるのに全然長いと思わなくて、それはドラマだから当然ながら現実ではあり得ないシチュエーションも出てくるわけだけど、これだけたくさんの人たちの心を揺さぶったのには、きっと人が生きる上での渇望してやまないもの、本質的なものが描かれているからではないだろうか。
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我ながら、ミーハーだと思う。まさかこんなに自分がドツボにハマるほどどっぷりとその世界に浸ってしまうとは思わなかった。互いが互いを思いやって、そして体を張ってでもその他のあらゆる障害から相手を守りたいという気持ちって、尊すぎる。いや、陳腐な言葉だとはわかっているんですけど。でも、そのドラマを見て改めて私自身もたくさんの人に気遣われて生きているんだな、ということを思い知らされるんです。
願わくば、これまで私に対して優しく接してくれた人が、満ち足りた生活を送ることを祈るばかりだった。憎しみだとか深い欲って、どうしても溺れがちになる。見えなくなるし、我を忘れてしまうわけだけど。たぶん、ものに対しても、人に対しても愛と呼べるものを結ぶことができるのなら、それがおそらく生きていることの意味にもつながってくるような気がした。
……とは言いつつも、愛も時間が経てば当時の柔らかくて素敵な思い出と共に風化していくわけであって。たとえば、長年連れ添った夫婦であっても時にはお互いいがみ合うこともあるだろうし、心にもない嫌な言葉をかけてしまうこともある。人の心や感情は、難しい。制御したいと願いながらも、それがまたできないこともわかってしまう。それだけ、みんな違う思いを抱えて生きていて、一筋縄でうまくいった試しがない。
でも、きっと忘れたくないことが一つだけあって。
それは今生きている中で、決して自分は孤独には生きていないということだ。誰かが気にかけてくれて、少なくない愛を注いでくれていて、それが注がれているうちは生きている中でも少しずつ、少しずつ植物のように上に伸びたり、前に進むことができているように思います。
かつて付き合った恋人や親しい人たちと過ごした過去、それから昔没頭した趣味や好きだったもののことを思い浮かべた。たぶんところどころ美化されている部分ももちろんあるだろうけれど、その半ば改ざんされたかもしれない記憶を辿って、もしかしたら明日はもっといい日になるかもしれないと考えるだけで、まだ見ぬ誰かそして周りにいる方々に対して、精一杯の誠意と、心ばかりの愛を注げる気がしています。
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故にわたしは真摯に愛を語る
一年半の長きにわたり、読んでいただいた皆様ありがとうございました。明日以降は、愛についてこだわることなく(時々触れるかもしれませんが……)自由に記事を書いていきたいと思います。今からすでに書きたいこともたくさんあります。また引き続き、よろしくお願いいたします。
P.S. tenさん
今回、素敵なイラストを使わせていただきありがとうございました!
あと、韓国ドラマのどっぷりハマりそうな予感がしています。皆さんのおすすめがあれば、ぜひ教えてください。
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