言葉の時雨に降り振られ
突発的な雨に、傘のない私は濡れるままだ。
思えば昨年noteを始めて半ば習慣的に文章を書くようになってから、時にはうんうんと頭を悩ませながらも言葉を捻り出すことに不思議な安堵感を覚えるようになった。
本当は1年間毎日描き続けたら一旦この習慣をリセットしようと思っていたのに、気がついたらパソコンの前に座ってパチパチと文字を打っている。1年続けるまでは正直毎日どんなことを書こうと頭を抱えていたのに、そのしがらみがなくなった途端、むしろ文章をとにかく書きたいという思いに駆られる。
私の心の中に潜んでいる言葉をそっと掬うたびに、自分にはこんなにも表現したいものが隠れていたのだな、と気づかされた。言葉で誰かに寄り添いたいと思ってしまうのは、もしかしたら傲慢かもしれない。
まあ、たぶんひょんな事でこの連続記録は途切れるだろう。
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他の方の記事を読んでいる中で、『三行で撃つ』(著者 近藤康太郎)という本を知った。
図書館で予約して読み始めたらすぐに文章にのめり込んで、あっという間に読み終えてしまった。得るものが多くて、思わず唸る。もうこれは手元に置いておこうと思って、しっかりAmazonに貢献した。
つい先日書いたnoteの記事でも述べたけれど、近頃以前よりも言葉の重要性というのを一層意識するようになった。改めて私が文章を書く理由は、自分の中できちんと消化したい、五臓六腑に落とし込みたいと思ったからかもしれない。ただぼんやり生活していると、見逃してしまうものがたくさんある。
これまで私は本をたくさん読んできたから語彙がそれなりにあるほうだと思っていたけれど、烏滸がましい。非常に、烏滸がましい。常に言葉を取り込むことで、より私自身の日常が煌びやかになるかもしれないことを考えるとワクワクした。
読ませるための3感があると筆者は主張する。①スピード感、②リズム感、③グルーヴ感。それはきっと、文章の中に見える水の流れのようなものなのかもしれないし、頬を切る風みたいなものかもしれない。確かに私が読みやすいと思う文章には間違いなく躍動感があって、まるでそれがそのもの生きているように錯覚する。
誰も理解してなくても、誰に求められなくても、自分のために、世界のために書く。
なんだか言葉の原点に立ったような気がした。文章を書くことによって、きっと私自身救われている部分が必ずある。自分の中の澱を吐き出して、そして一端の人間になった気がするのだ。
感性は天性のものではなくて、鍛えることができる。日頃瑣末な出来事から私が何を聞いて何を見て何を感じているのか。ただ、自分に正直でありたいと思った。
時には自分の中にある塊の正体がわからなくなる時もあるけど、きちんと向き合っていこうではないか。正直に。
それからこれからは小説だけに限らず、これまで自分の興味がなかったようなジャンルの本にも手を伸ばして少しでも多くの引き出しを持てるようになったらと思った。
補足)
黒が文章の内容で、赤がなんとなく自分が大事だなと思ったこと、青が自分なりの考え。
最近はあまり実体のノートに書くことがなくなり、もっぱらiPadにつらつらと書くことが多くなった。iPadの利点はなんといってもどこに持っていっても書くだけではなくて映画とかも見られたりすること。あとシェアも楽ちん。でも、やっぱり紙のほうが好きだなということを実感する。