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フィルムとわたし。

思えばきちんと写真を撮ることになって5年くらいが経っただろうか。元々は学生時代バックパッカーの見習いみたいなことをしていたときに、どこか旅してもそのうち記憶が薄まってしまっているな、と思うようになりその場の勢いでNikonのD5000という初級機を購入した。

ただ買ったはいいものの、結局カメラで写真を撮るという行為は旅をすることのおまけのような感じだったので、時々使ってはそのまま埃をかぶっている、なんてことが続いていた。

それが社会人になってから、猛烈に何かを表現したいと思うようになり、手近なところでできることといえば、そうだカメラがあるではないかとはたと気づき、とりあえずどこに行くにも持ち歩くようになった。

当時たまたま会社繋がりで知り合いになったカメラマンから、写真の上達の道はとにかく撮ることだよ、と教えられた。質なんか関係ないし、今時のインスタ映えを狙ってもそれはきっと二番煎じだろうし。周りは気にしなくていい。撮り続けていれば自ずと自分が撮りたい写真も見えてくるよ、そう言って柔らかく笑いかけてくれた。

それから1年ほどして、初級機は卒業してNikonの中級機に手を伸ばした。それまで標準レンズを使って撮っていたのだが、単焦点レンズというズームができないタイプのレンズを買った。次にフィルムカメラという、今ではかなりアナログな部類に入るカメラも買ってこれまた撮ることに夢中になった。

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最初に撮った写真はさすがというべきか、見事にピントがずれていてかろうじて人が写っているな、という感じだった。それが次第に慣れてきて、だんだん的を得た写真に変わってくる。

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なんとなく、いろいろ撮っているうちに自分は人々の生活の音がする場所を取りたいんだな、と思った。ただそこに私ではない誰か他の人の呼吸を感じることができるような写真が。

その後も、やたらと画質の良い写真が撮れるカメラを買ったり、いわゆるアンティークと呼ばれるようなカメラも買ったりしたのだけど、最後行き着くのは結局どんな高性能のカメラで撮影しようとも、大事なのは自分が何を撮りたいのか、それに尽きると思った。

写真は、物語を書くことと似ている気がする。本や映画と共通項がたくさんある。いつだってファインダーを除く先には、別の誰かの生活やら感情やらが映り込んでいて、たとえ私とは違う人が同じ場所、同じ時間で撮ったとしても全く別の写真になる。

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そう答えを出したものの、いまだに自分が納得のいく写真を撮ることができていない。ふわふわと漂う空気のようなものだ。しかもコロナになってしまって、ますます外に出づらくなってしまった。

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そしてもう一つショッキングなニュースが流れ込んできた。なんと、富士フイルムのPRO400Hが生産中止になるらしい。鮮やかなんだけど、少しくすんだ色合いが結構気に入ってたのに。

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ふっと浅く、息を吸い込みたい気分になった。今週末はせっかくだから住んでいる家の周りを散歩しつつ、写真を撮ろう。身近な世界は灯台下暗しというやつで、時々歩くと楽しい。


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だいふくだるま
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