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誰しもが持つ、「後ろめたさ」を震わせる
※記事執筆にあたり、ジブリの公式サイトから画像を拝借しました。
海の中の線路を、電車がチリンチリンと通過していく──。
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かつての思い出は、きっと引き出しの奥の方に鍵をかけてそっとしまわれているのではないか、そんなふうに考えることが最近よくある。
たまたま先月、出張で富山へ行く機会があった。実は毎年決まった時期に、仕事で富山へ行く用事があって、前回はそういえば雪が降っていた。昨年はいつになく暖冬だったので、コートを羽織っていても少し暑いくらい。仕事を終えた次の日は一日フリーで、どこか観光しようと思って調べていたら富山美術館で「金曜ロードショーとジブリ展」がやっていることを知り、急いでチケットを予約した。
東京でもやっていたんだ。全く知らなかった。でもこのタイミングで訪れることができてよかった。宮崎駿監督と鈴木敏夫プロデューサーの馴れ初め? から、日本テレビとの長きにわたる付き合いに至るまでが当時の作品と絡めて展示がされてあって、とてもよかった。
幼い頃、特にとなりのトトロが好きだったな。今見てみると、トトロって不思議な愛らしさと怖さがある。公開当初はかなり不評だったらしい。確かに見ようによってはちょっと不気味かも。それが金曜ロードショーでやるようになって、一気に人気が出たらしい。
展示を見てむくむくとジブリを見たい熱が高まり、TSUTAYAあたりで借りようかなと思っていたら、ちょうど年明けに「千と千尋の神隠し」がやるというので勝手にテンションが上がってり、昨日を迎えた。
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いつぶりだろう、千と千尋を観るのは! 前に見たのは、下手したら十年前くらいかもしれない。八百万の神様が体を休めに来る「油屋」という湯屋が舞台となっている。主人公である千尋は、引っ越しを行う途中で両親が何気なく立ち寄ったトンネルを潜り抜け、別世界へと辿り着く。
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お父さんが「昔のバブル時代の名残だろうねぇ」と言うその後ろを歩く千尋。改めて両親の行動を見るとかなり放任主義というか、あまり子供を気にかけていない感じがした。
気がついたら両親は豚になっていて、パニックに陥ったところをハクという青年が救ってくれる。この時点で、ああこういう流れで物語が進んでいくんだったなというシーンがいくつも出てくる。千尋が他の人に見つからないように小さな扉を潜るシーンは不思議の国のアリスを思わせた。ハクの助けもあって、油屋で千尋はどうにかこうにか職を得る。
「ここで仕事を持たないものは、動物になってしまうんだ」
今観ると、当時の時代背景が色こく影響されている気がする。
昔はちょっと怖い映画だと思って見ていた。でも最後まで見終わった時、最初に周囲から恐怖の対象とされていた湯婆婆でさえも優しい人に見えてしまうという不思議な感情の渦に巻き込まれた。
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もしたとえば、カオナシみたいな人が近くにいたとしたら。
私だったらどうするかな。何も言葉を発さず、いきなり手を前に差し出されたら、一歩退いてしまうかもしれない。もちろん多様性という言葉もあるし、いろんな人たちがいるこの世界を受け止めようという気持ちは働くだろう。
けど、いざその人を目の前にした時私は考えとは裏腹な行動をとるかもしれない。なんて言ったって、どんな人かわからないわけだし。一方で思ったのは、たぶん私自身場所によってはカオナシみたいにうまく言葉が出なくなってしまうことがあるし、それが人から見たらどうにも受け入れ難いと取られてしまったことも経験としてはある。(だからカオナシのことが憎めない。なんかなんとなく彼の心情がわかってしまう)
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でも彼(と言っていいのかわからないけれど)が手から砂金を出した途端、みんな血相を変えてカオナシの周りに集まってくるところにまた、人々の深層心理みたいなものがよく現れていると思った。同時に、次第に持ち上げられたカオナシが、水を得た魚のようにだんだん横柄になっていく姿を見て、いたたまれない気持ちになってしまった。
彼に抱くのは、ある種の「後ろめたさ」だった。それはきっと、誰しもが持っているような類の。忌避すべきものでありながら、心の中では全力で拒絶できない。
何が人の価値を決めるのだろう。ものやお金で賞賛を得たところで、それは果たして全体を俯瞰した時、その人にとって幸せな人生だったと言えるのだろうか。彼の態度が変わっていったのにも、気持ちがわかる。もしかしたら今まで自分を虐げてきた人たちに対して見返したいという思いがあったのかも。それゆえに、少しモヤモヤとしてしまう。
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他方、千尋の前に周りの人と同じように砂金を差し出して「釣ろう」とするカオナシに対して、明確に彼女は拒絶する。
彼女の中で「お金」という価値観が最も優先的ではないから。千尋から拒絶された結果、カオナシは再び自信を失い、姿が小さくなっていく。無邪気で純粋な正しさは、人の心を傷つけもするが、同時に救いもする。
結果として、他の人たちから忌避される存在となり、最初のように小さくなったカオナシは結局千尋の後をついて、最後銭婆の家へたどり着く。(湯婆婆がどちらかというと資本主義を重んじるのに対して、「銭婆」の家はとても自然主義に立ち返った家に住んでいるというのも皮肉だ)
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結局湯婆婆にとって評価される対象は、いかに湯屋において(あるいは湯婆婆に対して)金銭をもたらすか、儲けを与えるかという一点であって、そう考えてみるとこの世界の資本主義の構図と何ら変わりはないわけだし、もっというとカオナシも湯婆婆も考え方としては根本的には変わりはないように見える。
両者の違いってどこにあるのか混乱したけれど、それはもしかした名前を奪って(心理的に)服従させたことなのだろうか。それでも彼女の唯一の弱点は自分の息子である坊なのだと思うけれど、坊が銭婆によって姿を変えられても認識できなかったことを考えると、親としては事実だけを認識して、真実を見ようとしていない証左に見える。ハクにそのことを指摘されて、湯婆婆は自分の行動の過ちに初めて気がついたのかもしれない。(これって、千尋の両親に通ずるものがあるような)
一種独裁者的な人が目を覚す瞬間って、そうした何か自分にとっての弱みが表面化した時なのだろうか。
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そういう意味で、最初から最後まで真実を見ていたのは、千尋だけだ。
千尋が真実を見ることができたのは、果たして彼女が幼いゆえに何にも染まっていないからだからなのだろうか。本当は、年齢に関わらずそうした「何が本質なのかを見る」視点って誰にも備わっているように思えるのに。それが曇ってしまうのは、きっと変に経験を重ねたりだとか、考えが固執してしまうところにあるのだろう。
でも純粋さを保つのって難しい。たとえば子どもの頃と同じ考えのまま大人になったとして、それはそれで世間知らずとしてみなされてしまうだろうし。だから周りからの目にも屈服せず、そのまま純粋なままというのはもしかしたら現実的ではないのかもしれない。
最後千尋が現実世界を戻る前に湯婆婆から両親がどれか、という問いかけをされていたけれど、それが仮に外れていたらどうなったのだろう。事実から見たら全員豚だろうし。改めてジブリ映画を見ると、様々な考察が生まれて、そうした「何度見ても新しい見方がある」というのが名作と言われる所以なのだろう。
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彼女が、トンネルを抜けて元の世界へ戻ったとしても、真実を見ることができる女性であれと思わずにはいられない。さまざまなことを考えながらも、ハクの上に乗って空を飛びたいと願った夜でした。(ちなみに千尋はきちんとモデルとなった少女がいたようですね)
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