映画紹介#6川っぺりムコリッタ
ふとネットフリックスを開いたら新着の映画欄に見かけて。この映画を私は公開当時に映画館で見たのですがとても印象的でした。改めて見直して実感した、この作品の私なりの解釈を共有できたらと思います。
映画なのでストーリーありきですが、今回はこの映画から感じる”食べる”ことと
”生きる”ことについて。考えてみました。あくまで私の主観(解釈)ですのでこの映画が必ずしもこのようなことを意図して表現しているわけではありません。
とにかくフードコーディネーター飯島奈美さんが手掛ける食事シーン。これが印象的な映画なのです。
身寄りのない・訳がある者が徐々に心を許していく。そんな情景を食事を通して描いていて、それが何とも温かみがあり愛おしく見えてくる。
それも、一般的に質素と言われるような派手さのない食卓に。極端に言えば”白飯(しろめし)”がとにかく美味しそうに見えるのだ。
最初は無言で黙々と食べる様子から始まり、徐々に心の硬さが解けていくようなそんな風に描かれていて。互いに仲良くしようよとかそんな雰囲気でもなく、だけども数と時間を重ねるうちに不思議と心は通っていく。時には食べようと伸ばした箸が重なり、ギクシャクしたり、何というかコミュニケーションをはかろうはかろうとするでもないのに下手したら話をする以上に心は通じているようにさえ感じた。
それは、ただただ一緒にいる、であったり、寄り添う、に近しいもので、人と人とを近づけたり緊張を解いたりするのであろう。
”食べる”のもつ意味合いとしてすごくパーソナルな部分であること、一緒に食卓を囲むというのはそんな自分の内的な姿を共有していますよ・見せていますよということがとても意味深いのではないかとこの映画を見て思ったのだ。ただ食べる、栄養を摂取するのであれば一人でもなんら不自由無い。だけれど心許せる人と一緒に食事をするということはなぜこんなにも一種のコミニケーションかのように心がうち解けるのだろうか。本当に不思議だ。
生きるに最も身近な食べるという行為、それを共有するという不思議なのだろうか。
同じ釜の飯を食うとは、先人もよく言ったものだなとつくづく思ってしまった。
この映画を見て”食べる”が他の行動やコミニケーションとは異なったすごく特別な行為だと気付かされた。
それは食べるということをただ摂取という点ではなく、他者との繋がりという見方で見ているように感じた。とても暖かく深い視点で素晴らしいなと思った。
何気ない日常の素晴らしさ、時に見え隠れする人の弱さ、そんな中でも日々は過ぎ去ってゆく。だけれど、少し視点が変わればこんな風に人との繋がりを考えてみたり、生きるって・食べるってどんなことだろうと日々過ぎ去っていく日々の中でも少しだけ足を止めて考えてみたくなる。そんな素晴らしい作品だと思う。
最後に、うんちくのようだが、ムコリッタ(牟呼栗多)」は仏教の時間の単位のひとつ(1/30日=48分)を表す仏教用語で、ささやかな幸せなどを意味する。そうだ。