宇佐見りん『推し、燃ゆ』の感想――一つの経験に対する“深さ”が表現力を養う
宇佐美りん 著
『推し、燃ゆ』
読みました。今更ですが。
少しだけ感想を。
どんな本を読んだらこんな文章が書けるのか、いや、どれだけの本を読めば書けるのか。
何か、次元が違うような気がした。
面白いというか、すごい。すごい感性だなと。
これは純文学である。
大衆小説は、スラスラと一気読みできることが、一つの面白さの基準だと思っている。
一方で、純文学は1ページ1ページをめくるのが重い。本書はそのような1ページの重さを感じさせる。
ラストシーンにもあるように、
「背骨」がなくなれば、這いつくばって生きていくしかない。重い体を引きずりながら。
“推し”は、アイドルに限らない。
自分の支えとなるもの、“背骨”となるものを、“推し”と呼ぶことができる。
恋人への依存、
仕事に対する強い自信、
熱心な宗教心、
ある分野を極めようとする行為…
私の中に、“背骨”となるような何かがなければ、立っていられないのかもしれない。
彼女にとっての“推し”はアイドルだったけど、誰しも、それにかわるものを持っている。
しかし、それは突然、偶然、目の前から消えて無くなる。
私の中にある、私だけのものーーそれがなくては生きていけないが、それは実に脆い。
では、そういったものを持たない生き方がはたしてあるのか。
作者の書くものを今後も追っていきたいと思った。
まだ若い作家さんである。よく、たくさんの経験をしなければいけないなどというが、本作の表現をみれば、それが大嘘であることに気付く。
一つの経験に対する向かい合い方、広さよりも、深さが表現力を養う。
これは所属するコミュニティについても同じことで、コミュニティの大きさや所属数は、知見を広げるには役立つが、最小単位の家族の中だけでも、深く潜れば、宇宙のごとく果てがない。
巻末の金原ひとみさんの解説もまたよかった。
色々な解釈があるだろうが、「まさにこれ」という感想、解釈が書かれている。