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首から下が砂に埋まっている

首から下が砂に埋まっている

僕はもう長くこの生活を続けている。小さな変化はあれど、殆どこうだ。
平日については、何も言わない。何にせよ凡庸だ。それぞれが思う凡庸で少しばかり多忙な公務員の平日を想像していただければ、それが僕の平日ということになる。

休日は仕事に行かなくていいし、曖昧に笑う必要もない。そこで僕は平日と人格を入れ替えることにしている。僕が(おそらく大方の人間が)抱えている矛盾は、そうする事で少しは解けるからだ。休日の僕はもっと内省的な、おそらく本来の僕だ。休日は、ゆるい孤独を抜きにすれば、悪くない。そしてこの夢をみているのも休日の僕だ。

「どうやら17分後に電車が来るらしい。」

これが僕の住んでいる街。全国的にみれば極端な田舎ではないが、多くのドラマが産まれるような街でもない。
電車に乗って30分ばかり揺られると、地方の繁華街に出る。僕はそこで休日の大半を過ごしている。

電車では様々な人がそれぞれの目的を持って、乗降車する。

僕と同じようにひとりで座っている人が、電車が駒を進めるごとに恋人や友達と合流し、思い思いの目的地へ姿を消して行く。

今ちょうど、わずかに見える服装とオーデコロンの香りから生活を想像していた、顔も知らない隣席した少女も恋人と共に彼女らの目的へと消えていった。
あるいは僕が「boy meets girl」の世界線に生きていれば、その少女は電車で誰とも合流せずに、財布を置き去りに降車していたかもしれないが、そうはいかない。休日を毎日ひとりで過ごしている人間に出会いなど転がっていないのだ。

そうしてみると、目的も待ち合わせる人も無いのは僕だけに思えてしまう。映画館では今日もドラマが垂れ流されているのに。

ともあれ繁華街に着くと、いつもの喫茶店に入る。この喫茶店は、僕の好みに合った数少ない店だ。

特別珈琲が美味しいわけではないが、落ち着いて広々とした店内に、大き過ぎず小さ過ぎずの音量でクラシック・ジャズが流れていて、煙草も吸える。
空席が心地良い間隔でそこにあり、前席の老人は煙草を片手に新聞を読み耽っている。

深緑のブック・カバーに収まった物語と、お気に入りのロンソンのライター、休日の時間を刻む懐中時計と、ウィンストン・キャスターホワイトをテーブルに置き、熱々の珈琲が運ばれてくれば、僕の休日は始まる。

3時間本を読み思索に耽ったら、喫茶店を出る。

店を出ると公園へ向かう。僕が休日をこの街で過ごしている理由のひとつがこの公園だ。

僕は公園での読書が好きなのだ。それも池の周りに木のベンチが連なっているとなお良い。
決して混みあってはいないが、人々のそれぞれの生活が集まっている。そんな公園だ。

この公園については後日詳しく書こうと思うが、今日もここで本の続きを読む。

隣のベンチでは、二人組の青年が父親の食生活について話していて、体の大きい方の青年が「歳を取ったら逆にジャンキーのものを食べないとっ!病気に抗う体力もつかないし、歳を取ってから食生活を改善したり酒や煙草を止めるのはかえってストレスで早死させる!俺たちみたいな年齢の人だったら将来のためにいいと思うけど…」と熱心に語っていた。
友人になんでもない自分の考えを熱心に語っている彼が少し羨ましかった。

公園で読書して居る間、春の午後のひとときを過ごす若い家族や恋人たちが、それぞれの幸せを築いていたが、僕の隣には誰も来なかった。

しばらくして、黄昏時の非現実的な風景に目を細めていると、僕の横に人影が動くのが見えた。

老人だ。老人は約200秒の間、ぼんやり腰を下ろした後、「ガアアッ、プッ…」とベンチの横に痰を吐き捨て、缶コーヒーを置き去りにしたまま消えた。

僕は幸せそうな恋人たちや幼い子を連れた家族連れを横目に、老人の吐き捨てた痰を見つめた。

そして、僕は帰ることにした。家に帰ってザ・グレンリベットをストレートで飲もう。そうすれば老人の痰程度なら都合良く忘れ去る事ができる。
大丈夫、いつもどおり。

いつもどおり、この生活。首から下が砂に埋まってる。いつもどおり同じ夢…

#日記  #喫茶店 

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