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〈からかい〉という行為の本音
Twitter上で書かれる「言葉」は、「からかい」の形式を無意識的に選び取ることが多い。
あたまおかC https://t.co/IcVZIqeFka
— チェケラッチョはじめ (@master_hajime) October 8, 2021
※ツイートの具体的な内実に関しては、ここでは触れません。
ポイントとしては、「課題を抱えた何か」に対して、「短絡的な内容」で引用リツイートしている、という点です。
このような形式を持つツイートは、あたりまえのように日常的に見かけます。まず、内容やその意図を察することもなく、「あたまおかC」と短絡的にまとめ上げることは、「からかい」です。
事実を吟味することなく、その内容に対して、ユーモア的に、冷やかし的に、娯楽的に対処しようとする言動と意図こそ、「からかい」の形式です。
からかうこと。これは、強者-劣者関係(例えば、上司-部下)における、政治的表現になり得ます。
政治的表現としての「からかい」
『ブスな女どもが騒いでる』
ウーマンリブ運動をはじめとする「女性解放運動」では、マスコミなどのメディアの一部によって、このような取り上げられ方をされた。
ある特定の個人、グループに対して、「ブスが騒いでる」「あたまおかしい」と短絡的に揶揄することは容易いことであり、その内容が広範に理解されれば、ある種の「解釈装置」として各所に設置される。その後の「解釈装置」を介した解釈の拡大は、留まることを知らない。
認知しやすいような物事というのは、往々にして人々を動かす機能がある。分かりやすい言葉、見やすい広告、アフォリズムな名言といったものは、一瞥しただけで多大なインパクトを与えるメディアだ。
だからこそ、『ブスな女どもが騒いでる』と一言、「からかう」だけで、その「からかい」は政治的表現の一部になり得る。
責任回避としての「からかい」
1,「からかい」は基本的に「遊び」の文脈に位置する。「からかい」の行為や言葉は、真面目な社会的相互行為の責任を回避できる。
2、しかし「からかい」のゲームが成立するためには、「からかい」の言葉の主張が「からかわれる側」に対しては、『普遍的・匿名的・自明的』なものとして明示されなければならない。
「からかい」の行為には、「言葉」が伴う。
そのような「言葉」の二重性については、以下の通り。
①言葉の内容それ自体の意味
②文脈や状況における意味
②の性質については、「からかい」の言葉は、必ず「遊び」の文脈として捉えられる。「遊び」だからこそ、その「からかい」の言葉には、責任が消え失せている。
他者を揶揄したり「からかう」時には、言葉に付随して何らかの標識を伴っている。例えば、「あたまおかしい」と他者をからかう際に、にやにやと笑い声をあげながら、または、声の調子や身振り手振り、思わせぶりな目くばせをしながらといったもの、それが「標識」である。
「からかい」とは、「からかう側」と「からかわれる側」に区分されることで、その行為が相互的に発揮されうる。実際に、このような「標識」が「からかい」の「解釈装置」として機能することで、非対称的な集団が形成され、区分が進んでいく。
すると、責任の主体性が完全に不在になる。明瞭な「からかい」という行為が、ある「標識」によって広範に行き渡ることによって、責任の所在は宙に浮いてしまう。
だからこそ、「遊び」として「からかい」は存在する。
学校でのいじめ問題でも、性差別でも、障害者差別でも、セクシュアリティの差別でも、上司や部下の関係内でも、会社内の気軽なうわさ話であっても、「からかい」の形式が事細かに採用され、それらは加速する。
それは、少数の「有徴」な人々へ深刻なダメージを与えうる。しかしながら、この「からかい」は、責任の所在が宙に浮いた「遊び」でしかないような安易なものへと化ける。
特定の個人、多数のオーディエンス、または独り言のように発言することは、3者1様の「からかい」の形式へ帰着する。どのような状況でも、②の言葉の性質は「遊び」へと向かう。
オーディエンスに向けては、「遊び」であることを主張する。しかし、実際に「からかわれる側」にとっては、『普遍的・匿名的・自明的』な主張であることを表明しうるのである。
押し付ける「からかい」
3、からかいの言葉は、その内容において、「からかわれる側」の行為や属性について、何らかの主張を行うことができる。
「言葉」の二重性における、〈①言葉の内容やそれ自体の意味〉に関した、「からかい」のパターンを記述している。
特質的な【徴】を保持する「有徴」な者は、多くの場合は、その個々人の性質を無視しながら、大きな主語で一括りにされる。
(今まで可視化されずに差別を受けてきた)「LGBTQ+」というゾーニングは、最近になって目新しいものとして多くの人々の受容されるようになってきたが、実際に「LGBTQ+」という言葉が、「LGBTQ+」とされる人々を一様に説明しうる主語に、必ずしもなるということではない。
この「LGBTQ+」という言葉は、セクシュアリティとして〈人々に共有されうる〉ベースラインが「異性愛」にあることを示すに過ぎない。そして、〈共有されうる〉ための「解釈装置」によって、それが成される。この「解釈装置」は、「からかい」の形式により広範に共有されることで、ほとんど不可視化される。
社会的・自然的なものは、不可視化されて視認することが困難だ。よって、「LGBTQ+」という言葉は、徐々に、1つの場所に収斂してしまう。「LGBTQ+」が全員〈性のバケモノ〉のように認識されていたことも過去にあった。これは、「差別構造」の温床である。
「からかい」には、例えば「LGBTQ+は性のバケモノだ。」という命題について、【からかわれる側の意図よりもからかう側の方がそれについてよく知っている】という無意識の主張を見て取れる。大多数の均一的な解釈が、あたかも正当かのように共有されることによって、その主張はその「からかい」を跳ねのけるのは非常に困難になる。
「性」という普遍的な欲望概念を、あたかも「異質的である」とでも言うように、短絡的に特徴づけてしまう。このような(みえない解釈装置で不可視化されていることによる)悪意のない意図は、からかわれた側からすれば決して、悪意がないと納得することはできない。そして、からかう側を問い質すことになる。その後の展開は、不毛の一途をたどる。
「からかわれる側(LGBTQ+)」が、「性」や「愛」を隠し持つことが普遍性を帯びるしかなくなる。しかしながら、それは「からかう側」も保持する、あくまでも同一な性質なのである。
「遊び」である「からかい」は、遊びであるがゆえに、大多数からすれば他愛もない発言であり、その言葉に対する責任は不在となる。しかし「からかい」は、非常に強力なルールによって「からかわれる側」を雁字搦めに縛り付けるのである。
親密性としての「からかい」
「からかい」は、親密度を反映する。
気の知れた仲間内での「からかいあい」とは、その親密度を常に計測する試金石になる。
「からかわれる側」と「からかう側」が、「からかいあえる」という間柄を可視的に行えるということは、親密であることを語りうる。なぜなら、「からかう」行為とは、不誠実性を伴うからである。
「からかわれる側」から怒りを表明されるかもしれぬ状況で、「からかう側」は一定の許容を想定しながら「からかう」。意図や状況を察した「からかわれた側」は、許容の想定を感じ取ることで怒りの感情は生まれず、そして怒らないという結果が「からかう側」にも伝わることで、親密性が相互に確認される。
しかし、見知らぬ人同士での「からかい」による親密度の表現それ自体は、「からかわれた側」の憤りの原因となる。なぜならば、それは「からかわれた側」の意図を無視し、投げかけられるものであるから他ならない。
「LGBTQ+」が〈性のバケモノ〉のスティグマを押されることを、快く思う当事者は少ない。しかしそれは、誰が「からかう」のかという発信源の問題、そしてその言葉の文脈の状況などにより、印象は如何様にも変容しうるのである。
意図を無視する判定を下し、「からかわれる側」を劣位者としての軽蔑してるのか。もしくは、愛情の表現としてであるのか。というような変容である。
この、1~3は「社会的相互行為のパターン」である。とくに、社会的カテゴリーとしての強者と劣者の関係において、広範に利用されるのである。
強者⇔劣者の「からかい」合い
①〈劣者⇒強者〉への「からかい」
劣者が強者に批判や攻撃を行うためには、強者の反発的な攻撃を最低限防御するために「からかい」という形式をとる。
強者としてはこの「からかい」に対し、怒りを表明したり攻撃することは「みっともないこと」である。ましてや、強者が劣者に本気で怒ることは「大人げない」ことである。
これを利用して、劣者は「からかい」という形式を使用することで批判的意図を表明する。
しかしこの手段は、自らが劣者として、とるに足らない存在であると〈規定〉し直すことに繋がってしまうのである。
②強者⇒劣者への「からかい」
強者から劣者への攻撃は、劣者に対する攻撃的意図をひた隠すために「からかい」の形式を利用し、社会的な被害を最小限に留めようとする。
真正面から争うこと自体が、己の体面を汚してしまうことに繋がるため、「遊び」という「からかい」の形式によって責任の所在を有耶無耶にし、その意図を示すのである。
そして、この構図が、他者に対する侮辱をして利用されることもある。「からかい」の形式の使用自体が、他者を真面目に取り上げるに値しないものとして、〈規定〉することにもなるからである。
「からかい」とは、「空気」によって支配的に存在しうる。「からかい」をその場で否定することとは、「空気の読めない行為」となる。抗議するのは非常に困難で消耗感を伴う。
抗議すべきは「からかい」自体ではなく、その「からかい」を社会的・自然的なものとして不可視的に周知されているような「解釈装置」にこそ、焦点を当て、議論すべきである。
性的な「からかい」
親密性を測る「からかい」としては、性的な事柄は外すことはできない。
なぜなら、性は人間にとって、もっとも「親密な」事柄だからである。
(あくまでも説明の材料として)劣者としての「LGBTQ+」と、強者としての「異性愛者」の構図で見てみる。〈強者⇒劣者〉においては「からかい」によって、その批判的見地を表明しうる。
「異性愛者」としての強者は、「LGBTQ+=異性愛者以外のセクシャリティ」という性的他者として、短絡的に把握する。
人と人は、本質的に性的な相互関係を構築しうるのだから、人間対人間とは「性」という親密性な関係を構築しうるのだ、という可能性が有ることを誰もが認知しているゆえに、その「性」は親密性の表現となる。
しかし、「異性愛者以外のセクシャリティ」という短絡的な理解は、そうは至らない。それらの「性」と、異性愛者の「性」は〈同一のものではない〉という判断を無意識的に下すことになり、その結果「性」は「LGBTQ+」との親密度を測るための試金石とはならず、「性」という現象は徹底的に排除される。(そして、こそこそとセックスするために多くのハッテン場が増殖することになる。ラブホテルからも除外される。)
しかし、無視され排除されたからこそ、そこには監視の目は届かない。だから、そこに〈自己同一的な姿〉を求めることもできた。この点は、非常に悲しい点です。
「からかわれ」ながらも、「性」という観点ではなく、強者と劣者の両者が普遍的に保持しうる、「愛」という現象によって、その「異性愛者以外のセクシュアリティ」が、近年広く〈規定〉されてきているのは、そのためではないか。(〈規定〉されてしまえば、「からかわれる側」の分断は必ず起きてしまうけど。)
しかしながら、このような強者-劣者の関係が継続する限り、「愛」においても、または「性」においても、社会的カテゴリーとしての呪縛を拭うことはできないのではないか。
外に出るしかない「からかわれる側」
黒人解放運動、女性解放運動、ゲイ解放運動とは、「からかい」や「差別構造」が蔓延る社会という「外」に、果敢にも立ち向かった当事者が存在したからこそ、成立した解放運動です。
劣者、犯罪者、人外というようなレッテルを張られることを恐れながらも、果敢にそれと真正面に取り組み、少しづつ社会を動かしてきた人たちが居たということは、決して忘れてはなりません。