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虚空におじぎをするおばあさん
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浅草寺。
若者たちは、浅草寺の石垣に腰掛けながら、大鶏排(ダージーパイ)を食べる。
若者は、大鶏排を食べる。そして、大鶏排は食べられている。
たくさんの若者たちは、同様に、何かを食べている。
若者は、大鶏排を食べたい。しかし、若者は、本当に大鶏排を食べたいと思っているのだろうか。それを知ることは、決して叶うことは無い。
そして、鶏自体は、その事態に対して、どのように思っているのだろう。生まれながらにして、食べられたかったのだろうか。それも、知る由もない。
***
人は行為する。そして、行為される。
純粋無垢な欲望を行使して、行為し、行為される。
しかし、それは果たして「自己の意志」としての行為を表像していると言えるのかと問われれば、そこには疑問が残る。
自由に、おもむくままに欲望し、行為し、意思を表明している。
しかし、意志とは、「自由」そのものではない。
大鶏排を食べたい、という欲望を表像させるための意志は、その意志として存在してることは間違いがない。
ゆえに、その意志は、それに対して作用してくる原因がある、と考えるのがふつうである。
意志が、まるで「神」のように、または「本質的」、「形而上的」に存在していると、何故考えてしまうのか。
食べたいという意志は、何事かから作用され、表出してきたものにすぎない。
私のもとにある意志は、外の世界にあるものなのだ。
もしかしたら、意志を持つ者は、不自由であるのかもしれないという洞察。
そして、意志を極限にまで客体化する者は、極限にまで自由であるかもしれないという気づき。
***
浅草寺の小さい祠に、おじぎをするおばあさん。
虚空に存在する偶像に、敬意を払い、おじぎをする。
おじぎをするおばあさんに存在する「意志」。
おじぎをしたいから、なのだろうか。または、願い事をするためのおじぎなのだろうか。どれも、知る由もない、ナンセンスな問いだ。
わたしという主語が語る、このような問いは、「私自身」であって、おばあさん自身ではない。あなたは、あなたの「意志」を語る。
だれもが、「偶像」を心の中に持っている。それは、あるときに、何事かを想定する規定となる。
その「偶像」は見えない。なぜならば、規範の極地を示すからである。
おばあさんは、可視化された偶像におじぎをした。これが示すこととは、一体何であろうか。
おじぎをすること、お参りをすることとは、「おじぎをする私に、おじぎをする行為」なのだろう。
決して見えない(誰もが見ることのできない)「偶像」としての私自身が、可視化された「偶像」におじぎをする様子は、まさに内省的である。
同じことにあふれた今の時代、「偶像」には同質的な部分が多い。
私とは、私ではない。
他者とは、他者ではない。
私は、他者ではない。
しかしときに、私は他者である。
見えない「偶像」をベースラインに規定して、振舞うしかない私。
おばあさんに存在しているのは、可視化された「偶像」に対しておじぎをしながら、おばあさんの「偶像」(規定)を揺るがす行為そのものである。
***
「おじぎをする私は、おじぎをする私に、おじぎをする。」
「偶像」への、能動的行為ではない。
「偶像」への、受動的行為でもない。
自閉的、内向的なプロセスをここで見つけなければならない。
虚空におじぎをする行為とは、非常に中動態的である。