シロイルカの美容室(3)
その日、タケルとナオは、珍しく酒を2人で飲んでいた。
タケルは、ほとんど酒は飲まない。たまに親族や友人と集まった時に申し訳ない程度にレモンサワーを一杯飲むか飲まないかくらいだ。
それに比べナオは酒豪と呼んでも良いくらいに飲む。それこそワインだろうが日本酒だろうが酔いはしても潰れることはない。
ナオの大学時代の友人が田舎から送られてきたと言う大量の梅をお裾分けされ、タケルが梅干しか梅ジャムでも作るかと気合い入れていたところにナオが梅酒にしてとおねだりしたのがことの始まりだった。
酒を嗜まないタケルからするとあまり魅力のある提案ではなかったが他ならぬナオの頼みであったのでホワイトリカーと角砂糖を買ってきて仕込んだのが半年前。
そして試飲として飲んでみると初めてとは思えないまろやかな甘味と酸味にナオは舌鼓を打った。タケルは、ソーダで割っていたが自画自賛の出来の良さに杯を進めた。
結婚してから2人でこうやって酒を飲むのは初めてだった気がする。
2人はたわいも無い話しをして盛り上がった。
お互いの仕事の近況。
大学時代に失恋してからずっと彼氏のいなかった友人がお見合いして結ばれた話し。確かコーンスープがどうとかこうとか言ってた気がする。彼女自身もみそ汁を飲まない変わった子だが性格も良く、少女の面影を残した可愛らしい子で正直幸せになってくれて嬉しかった。
そして2人の出会った時の話し・・・。
2人は、じっと見つめ合う。
しかし、お互いで触れ合おうとはしない。
したくても出来ない。
ナオは、顔を俯かせ梅酒を舐めるように飲む。
タケルは、なんかツマミでも作ろうかと立ち上がって、よろける。
普段飲まない酒が随分と回っているようだ。
テーブルに手をついて身体を支えるもののよろけた弾みにナオに寄りかかってしまい、お互いの頬が触れ合う。
ナオは、驚き目を見開く。
タケルがよろけたことに驚いたのではない。
タケルの頬に触れ合ったのに嫌悪感が湧かなかったことにだ。
それはタケルも同じだった。
目を震わせ、絶句している。
ナオは、男性と抱き合うことが出来ない。
タケルは、女性と抱き合うことが出来ない。
同性見ると下腹部が熱くなり、異性に触れると嫌悪感で吐きそうになる。
それはお互いが人生のパートナーになっても変わりはなかった。
触れ合ったことなど一度もない。
ナオは、立ち上がり、タケルの顔を見つめる。
頬が赤くなるのは酒の力だけでは決してない。
ナオは、手を伸ばしてタケルの頬に触れる。
嫌悪感は湧かない。
湧いてくるのは愛しい思い。
ナオの目から涙が溢れる。
タケルの目からも涙が溢れる。
そして2人は唇を交わしあい、抱き合った。
それは偶然に偶然が混ざり合った奇跡だったのかもしれない。
翌朝、ベッドで目が覚めた時には触れ合った肌からいつもと変わらない嫌悪感が襲ってきた。
その日の晩も酩酊するまで酒を飲んで触れ合ったが嫌悪感が膨らんでそれ以上のことは出来なかった。
たった一度だけの奇跡だった。
2人はそう割り切ることにして変わらない日々の生活に戻った。
それから3ヶ月が過ぎた頃、眩暈と吐き気、胃の不快感などの体調不良に襲われた。
生理も遅れていた。
看護師であるナオは直ぐにある一つの言葉に行き着いたが、「まさか・・ね」と半信半疑だった。
そして病院で検査をした結果、妊娠3ヶ月であることが判明した。
ヤドカリの鋏がナオの髪を切る。
切られた髪は、落ちることなく水に乗って漂い、消えていく。
「タケルには私が妊娠したことを言ってないの。ひょっとしたら何となく私の様子が違うことには気付いているかもしれないけど・・・」
シロイルカは、ヒレを器用に動かす。まるで人間の腕のように。
「なぜ、言わないのですか?」
「・・・怖くて」
「・・・その彼は子どもを殺すのですか?」
シロイルカのあまりに凶暴な言葉にナオは息を忘れる。
このイルカは、何を言っているのだ?
「何を言ってるの?そんな訳ないでしょ!」
ナオは、思わず声を荒げる。
彼を侮辱された気がして許せなかった。
しかし、シロイルカは、何事もなかったような顔をして再び口を開く。
「それでは何を怖がっているのです?」
その声にはナオに対する申し訳なさも怯えもない。
淡々とした先程までと同じ口調だった。
同じ哺乳類としか共通点のない生き物に何を言っても無駄か・・とナオは嘆息するも、どうせ分からないのなら逆に話しを続けても良いかと思った。
どうせ人間に話しても分かってなどもらえないのだから。
「私たちってね。普通の人と違うの」
「違う?」
「私は、女の人としか性交渉が出来ないの」
「それは交尾のことですか?」
淡々と言い換えられると途端に恥ずかしくなり、ナオは頬を赤らめつつも話しを続ける。
「そして彼は男の人としか出来ない」
「・・・それでも子どもが出来たのですね」
「そう奇跡的にね」
「では、なぜ言えないのですか?」
「ちゃんと育てられる自信がないの」
いつの間にか涙が流れていた。
水の中だというのに涙は、頬を伝って下りていく。
ナオは、お腹を触る。
「私たちは普通の夫婦じゃないから。あまりにも歪で理解されないから。そんな夫婦に生まれて、育てられてこの子は幸せに生きられるのか?ちゃんと育てていけるのか不安なの」
涙がとめどなく溢れる。
一度、溢れた感情は止まらなくなる。
タケルは、この子を受け入れてくれるだろうか?
きっと受け入れてくれるだろう。
この子を愛してくれるだろうか?
きっと愛してくれるだろう。
でも、怖い。
この子を育てられるか怖い。
タケルと今の夫婦の形を続けられるか怖い。
この子が私たち歪んだ夫婦を受け入れてくれるかが怖い。
ちゃんとした母親に慣れるのか怖い。
どうしたら良いのか分からない。
ナオは、両手で顔を覆う。
感情がぐるぐる回って止まらない。
このまま渦になって水の中で溶けてしまいたい。
ヤドカリの鋏が止まる。
「・・よく分からないのですが・・・」
ナオは、やっぱりなっと嘆息して小さく笑う。
しかし、シロイルカが発した言葉は予想外なものだった。
「貴方たちのどこが歪なのですか?」
(4)に続く
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