明〜ジャノメ姫と金色の黒狼 第3話 日と月の出会い(1)
月が冷たい。
固く閉ざされた側扉の物見の隙間から見える銀色の月を見てアケはそんなことを思う。
確か夜明けまではまだ時間があるはずなのに空が少しだけ明るく見えるのはそれだけの高さの場所にいるということだろう。
アケは、白無垢の重さと座布団すら用意されなかった板底の固さと冷たさに身じろぐ。
正方形の暗い輿の中、聞こえてくるのは風を切る音、その風に逆らうように羽ばたく大きな翼の音。感じるのは19年と慣れた大地の重力から離れて宙に浮かび上がる慣れない感覚だ。
もう自分が住み慣れた大地を踏むことはない。
食べ慣れた食事を口にすることも、知っている人の声を聞くことも、嫌な思いをすることも抱くこともなくなるのだ。
ジャノメ姫・・・・。
穢らわしい・・・。
この世からいなくなればいいものを・・・。
何故、お前が我が子なのか・・・。
アケは、自虐的に笑う。
ようやく楽になれる。
解放される。
輿がゆっくりと下に降りていくのを感じる。
翼の音が少しずつ静かになっていく。
着いたのだ。
アケは、唾を飲み込む。
身体が強張っていくのを感じる。
何を恐れる必要があるの?
ようやく解放されるというのに・・・。
アケは、汗ばむ手をぎゅっと握り、輿が止まるのを待った。
重力が戻る。
月の明りが消え、弱い朝の光が差し込む。
右手側の側扉から鍵を開ける音が幾つも聞こえる。
アケは、蔑むように口元に笑みを浮かべる。
そんなに警戒しなくても空の上で逃げられる訳がないし、逃げるつもりなんかもなかったのに。
側扉がゆっくりと開かれると年配の髭を蓄えた緑色の甲冑を纏った武士の顔が見える。
「姫、到着しました」
「分かりました」
アケと年配の武士の目が合う。
その瞬間、武士の顔に恐怖が走り、身を引く。
見慣れ過ぎた表情。
アケは、何も感じないままに輿から出る。
本来なら白無垢に身を包んだ女性を、しかも姫と呼称する者に手を差し伸べない武士などいるはずがない。
しかし、年配の武士も、そして周りにいる武士の誰もアケに手を差し伸べない。それどころか近寄ろうともしない。
それはアケを恐れているからに他ならない。
いや、アケの額にあるジャノメを。
見目麗しいという表現しか出来ないアケの顔立ち、しかし、それには2つの異質なものがあった。
1つは両目の部分を覆った黒い布。
そしてその上、額に付いた丸く、白く赤い縦長の瞳を持った大きな目・・・蛇の目が。
アケは、蛇の目を動かして辺りを見回す。
それだけで武士の1人が小さく悲鳴を上げる。
しかし、アケは気にも留めない。
そんな声など聞き飽きているから。
そこは小さな平原であった。
柔らかな草の感触が足の裏を撫でる。
正面には広大な森が広がり、背後にはどこまでも続く橙色に焼けた雲海と足元には断崖の絶壁が見えている。
それだけでここが今までアケが住んでいた場所ではなく、"猫の額"と恐れられる山の頂上であることが分かった。
「来たんだ・・・」
アケは、ぼそりと呟いた。
アケが乗ってきた豪奢な輿の四方には太い縄が結び付けられており、その縄の先には4匹の飛竜が地面に伏し、その横に緑色の甲冑を着た武士が待機している。
飛竜に縄を持たせて空を遊泳したことは知ってはいたがよくもまあ縄が切れなかったものだと感心する。いや、彼らにとっては縄が切れたところで問題などないのであろう。
縄が切れて輿が落下しようと、猫の額に無事に辿り着こうともアケが国に戻らなくなりさえなればそれでいいのだから。
アケは、蛇の目を動かし、年配の武士を見る。
蛇の目に見られ、武士の顔が恐怖に引き攣る。
やれやれ、これで国を守ることが出来るのかとアケは気づかれぬくらいに小さく嘆息する。
「あの・・・」
「何でございましょうか?」
年配の武士の声は上擦っている。
「何か履き物はあるかしら?足が冷たいのだけど?」
輿を降りてからずっと素足なのだ。白無垢のせいで見えないから仕方ないのかも知らないけど流石に輿に乗っているのだから履き物がないことくらいには気づいて欲しい。
年配の武士の反応が一瞬止まる。そしてアケの言葉を理解すると仲間の武士に履き物を用意するように言うが誰も履き物を持っておらず慌てふためく。
今度こそアケは、分かりやすいくらいに嘆息する。
「もういいわ。行きなさい」
アケの言葉の意味を武士達の誰も理解出来なかった。
アケは、いい加減に苛ついた。
しかし、それを決して表には出さない。
感情なんて自分が出しても意味がないことは分かっているから。
「早くしないと黒狼様が来るわ。貴方達を巻き込みたくないの。だから行きなさい」
武士達の表情が明るくなったのは決して赤く焼けてきた空のせいではない。
「姫、お幸せに・・・」
「どうぞお達者で・・・」
「ご武運を」
心の全くこもってない世辞を述べて武士達は飛竜の背に乗る。
小さき声で武士達が話す。
「良かった」
「奴が来る前に帰れるな」
「ようやく疫病神が消える」
「ああっ気味悪い」
「あの目、ぞっとするぜ」
「ジャノメ姫がいなくなれば国も平和になる」
そう言って武士達は喉を押さえて笑う。
アケの耳にはしっかりと武士達の話し声が聞こえていた。
特別な力がある訳ではない。
聞き耳を立てる力がないと自分を守れなかったからだ。飛竜の1匹がアケの顔を見る。
黄色い縦目を細めて見るその様は武士達からは欠片も感じられない慰めと労りが見てとれた。
「ありがとう」
アケは、飛竜に向かって言ったのだが、自分達に言われたと思い武士達が頭を下げる。
「貴方・・・」
アケは、年配の武士を見て声を掛ける。
「はいっ」
年配の武士は、声を震わせて返事する。
「ナギにあったら伝えて」
「大将にですか?」
年配の武士は恐る恐る聞く。
アケは、頷く。
「私は、黒狼様の妻になります。元気に暮らすから心配しないで。貴方は貴方の道を歩みなさい、と」
アケの脳裏にニコニコと可愛らしい笑みを浮かべて「姉様〜」と寄ってきた可愛い男の子が浮かぶ。
唯一、私の事を恐れずに慕ってくれ、私の為にと懸命に努力し、大将にまでなった彼の姿が。
「畏まりました」
年配の男は、恭しく頭を下げる。
アケにというより、ナギにであろうが。
そして飛竜達は翼を大きく羽ばたかせ、輿を慎重に持ちながら浮かび上がる。もうその中にはアケは乗っていないというのに何よりも丁寧に。
きっと私よりも輿の方が大事だったんだろうな、と思いながらアケは武士と飛竜が去った雲海を見ていた。
雲海の向こうから朝日がゆっくりと顔を出す。
その反対側には同じように雲海の下にその身を沈めようとする月が。
それはまるで日と月が顔を合わせて談笑しているように見えた。
「何者だ」
草を踏み締める音と共にその声は聞こえた。
威厳と畏怖の混じり合った酷く重くて甘い声が。
来た・・・。
アケは、自分の背中に汗が流れるのを感じた。
そして両手が小さく震えていることに。
大丈夫。
恐れることなんてない。
ようやく・・・解放されるのだから。
アケは、ゆっくりと声のする方を向いた。
そこにいたのは金色の光に包まれた見上げる程に大きな黒い狼であった。
柱のように太く、長く、雄々しい四肢。
鋼のように硬く、絹のように滑らかな黒い毛に覆われた頑強な体躯。
氷のように鋭く、冷たく輝く牙。
気品と威厳を表したような美しい顔立ち。
そして全てを見透かし、魅了するような黄金の双眸。
「金色の黒狼」
アケは、目の前に悠然と立つ巨大な狼に圧倒されされながらその名を口にした。
白蛇の国の神にして王、白蛇と対を成す存在。
"災厄"の忌名を持ち、数百年も前に国を襲い、白蛇と戦い、この地に封じられてからも民から畏怖の念を持って恐れられし者。
黒狼は、黄金の双眸でじっとアケを見る。
「その名で俺を呼ぶということは其方は白蛇の国の民か・・」
黒狼は、ふうっと鼻息を吐く。
「はいっ」
アケは、白無垢が汚れるのも厭わずその場に座り、四つ手をついて頭を下げる。
「白蛇の国、関白大政大臣の末娘アケでございます。この度、黒狼様の妻となるべく参りました。どうぞ末長き御寵愛の程、よろしくお願い申し上げます」
御寵愛・・・自分で言って笑いそうになる。
愛なんて掛けられたこともないのに何が御寵愛なのか?
どうせ直ぐ食われて終わりだ。
アケは、黒狼に見えないように自虐的に笑う。
そしてようやく解放させるのだ・・・と思い、震えた。
しかし・・・。
何も起きない。
待てど待てど何も起きない。
アケは、恐る恐る顔を上げる。
今更だが頭に被った綿帽子が邪魔だと感じる。少しでもズレると視野が乱れる。
黒狼の顔は・・・固まっていた。
彫像のように・・・気品と威厳そのままに固まっていた。
「・・・どうなさいましたか?」
アケは、恐る恐る尋ねる。
尋ねずにいられないほど黒狼の様子はおかしかった。
「・・・妻?」
「?・・・はい?」
「君・・・いや其方は今、妻と申したか?」
「?・・・はいっ」
「・・・誰の?」
「・・・黒狼様のですが?」
黒狼の口が開く。
それは人間で言うなら呆然としている様に酷似していた。
「娘よ・・・」
「はいっ」
アケは、身を固くする。
「其方に俺の妻になるように行ったのは誰だ?」
アケは、ぎゅっと手を固く握る。
恐らく返答次第で自分の命は無くなる。
いや、無くなることは覚悟し、望んでいるのに何故自分は緊張しているのだ?
恐れているのだ?
「白蛇様にございます。眠りにつかれる前に言われたのです。私を黒狼様の元へ連れて行け、と」
その言葉を聞き、関白は、そして神官達は思ったのだ。
黒狼の元に妻として送り厄介払いしよう、と。
そして口にこそ出さないがこう思ったのだ。
あわよくば黒狼に食われてしまえばいい、と。
(そして私もそれを望んだ)
自分で自分の命を落とせないのなら食われてしまいたい、と。
しかし、黒狼の口から出たのは盛大なため息だった。
犬科と言っていいのか分からないが人間以外の動物がため息を吐くのを見るのは初めてかもしれない。
「あの馬鹿・・・」
黒狼は、前足を額に当てる。
そして黄金の双眸をアケに向けた。
「娘よ」
「はいっ」
「怖い思いをさせたな」
黒狼は、目を細めて言う。
その声は、外見からは想像も出来ないほど優しい声色だった。
「俺は、君を妻として迎えることはないし命を奪うようなことはないから安心するといい」
アケの蛇の目が大きく見開く。
身体が小刻みに震え出す。
「直ぐに迎えを寄越すように関白に伝令を送ろう」
黒狼は、頭を森に向ける。
「少し寒いかもしれないが迎えが来るまで待っていなさい」
そう言って森の方へと歩いていく。
「あっ・・・」
アケは、立ちあがろうとするも身体が震えて上手く動くことが出来ない。
この震えは恐れと・・・。
(安堵?)
安心した?
食べられなくて?
命が助かって?
アケはは、白無垢の胸元を握りしめる。
黒狼は、ゆっくりと森へと進んでいく。
ダメ・・・そんなの・・・ダメ・・。
「ま・・・待ってください!」
アケは、空気が割れるくらいに大きな声で叫ぶ。
黒狼は、尖った耳がびくっと動く。
「なんだ?」
黄金の目がアケを見る。
アケは、ぎゅっと両手を握る。
「・・・帰る場所なんてない・・です」
その声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。
思わず泣いてしまいそうな程に。
黒狼の黄金の目が細まる。
そして踵を返してアケの方に戻ってくる。
アケは、動くことも出来ず、黒狼が近寄ってくるのを待った。
黒狼の鼻先がアケの胸元に近付く。
嫌悪感は・・・湧かない。
むしろ花のような甘くて心地よい香りすらする。
黒狼の口がゆっくりと開き、白い牙が目の前に迫る。
ああっ食べられるんだ。
アケは、蛇の目を閉じる。
そして身体を震わせてその時を待った。
しかし、身体が感じたのは牙の食い込む痛みではなく、宙に浮き上がる感覚と滑らかで柔らかい感触と甘い花の匂いだ。
アケは、蛇の目を開き・・驚く。
アケは、黒狼の背に乗っていた。
黒狼は、そのまま何事もないように森へと入っていく。
アケは、何故か恥ずかしくなり顔を赤らめる。
「娘よ・・・」
「はいっ」
声が思わず上ずる。
「その目は、どうした?」
その目とはどっちの目のことを言っているんだろう?
「白蛇のものか?」
ああっこっちのことか。
「はいっ。私があまりにも不憫だからと授けて下さいました」
そう言って蛇の目の横に触れる。
「そうか・・・」
黒狼は、それ以上何も言わなかった。
アケも何も言わず、落ちないように黒狼の背にしがみついた。
花の香りが心地よかった。