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平坂のカフェ 第4部 冬は雪(33)

 私は、病室に戻った。
 あれなら色々とあった気がするけど正直曖昧だ。
 あれから直ぐに警察と救急が雪崩のように裁判所に入ってきて"鳥頭"の救護と現場検証が行われた。
"鳥頭"を刺した男を逃したとして私は、殺人幇助を疑われたが、刺した男とは今まで接点がないこと、彼が植物状態になってから私の精神が酷く不安定で、急にいなくなって探していたことを母親が訴え、新聞記者や他の傍聴席にいた人達も男と二言三言交わしているのは見たがほとんど接点がなかったことを証明され、後日落ち着いてからの事情聴取と言うことで解放された。
 警察は、私の顔を見た瞬間、どこか"しょうがないな"と言う顔をした。
 恐らくやってもおかしくないと思われたし、同情もされたのだろう。
 警察が母親に私に聞こえないようこっそりと「調べないと断定は出来ないだろうけど、恐らく事件性はないだろう」と話していたが、幼い頃に虐待を受けていた私は音や声に敏感なのでちゃんと聞こえていた。
 カーディガンの袖の下に隠した小刀を見たら母親も警察もどう思うのだろうか?と自虐的に笑う。
 母親は、私をそのまま家に連れて帰ろうとするが、私が病院に寄って欲しいと言うと、何も言わずに連れてきてくれた。

 そして私は、ここにいる。
 丸椅子に座ってベッドの上で眠る彼の顔を見る。
 彼は、ただ眠っているだけにしか見えなかった。
 酸素マスクやたくさん繋がれた管、不快な音を立てる機械類がなかったら直ぐにでも目を覚ますのではないかと思う程に。
 しかし、彼は目を覚さない。
 いつ目覚めるかも分からない。
 私は、眠る彼の胸に顔を埋める。
「私・・・出来なかったよ」
 私は、眠る彼に語りかける。
「何も出来なかったよ・・・私・・」
 左目から流れる涙がシーツを汚す。

 私には何も出来なかった。
 彼を助けることも出来なかった。
 目覚めさせることも出来なかった。
 そして唯一、出来たであろう敵討ちも、恨みを晴らすことも出来なかった。
 結局、私は、あの頃から何も変わらない、何も出来ない女なのだ。
 私は、目を瞑る。
 シーツを通して彼の規則正しい心音が聞こえる。
 生きている・・・。
 彼は、生きている・・。
「もう一度・・・」
 私は、涙の混じった声で呟く。
「もう一度、貴方と話したいよ・・・」
 そして私は、眠りに落ちた。






 目覚めた時、私は知らない場所に立っていた。
 生々しい血管が脈打つような白い空間。整然と無機質に並べられた空間と同色の質素なテーブルと椅子、曇ったガラス窓、奥にあるカウンター、僅かにするコーヒーの香りでここがどこかのカフェであると無意識に認識する。
 しかし、それよりも目を引いたのはカウンターの奥にある大きな桜の木の絵だ。

 美しい。

 そうとしか表現が出来ない。
 夜の空も濃く煌めく太く、大きな幹、天に食らいつくように無数に伸びた太い枝、そして今は、夏のはずなのにその身には艶やかな桃色づく絢爛な花々を纏っていた。
 桜の木の絵は、緩やかな風に煽られるようにその身を揺らし、花びらが舞いふらす。
 花びらは、渦を巻いて1つの列となし、竜のようにその身をくねらしながら私の身体を包み、景色を桃色に染めた。

 不思議な現象・・・。

 しかし、それよりも私は桜の木の絵に目を奪われていた。
 その桜の木・・・知っている容姿とは違っても決して間違えようがない・・私はこの桜の木を知っている。

「高校生がこんなところで何をしている?」
 声がかけられる。
 いつの間にか桜の木の絵の下に人影が見えた。
 絵に重なっていて暗くてよく見えない。
 男性であることは声で分かる。

 高校生・・・?

 私は、怪訝に思いつつも自分の着ている服を見て驚く。
 私は、制服を着ていた。
 それも自分が卒業した高校の制服を。
 それだけではない。
 ピンクのカーディガンも高校の頃に羽織っていたデザインのもの、髪の長さは今もそんなに変えてはいないが触ると質感が少し違うことが分かる。
 そして何よりも私は眼帯をしていた。
 もう2度と付けることがないと思っていた眼帯を。
「いつからそこにいる?」
 人影は、精密な人形のように手を動かしていた。
 その仕草がコーヒーの粉をドリッパーに入れていることが分かった。

 この声・・・。

 私の心臓が高鳴る。

 私は、震える足を前に向ける。
 近づくに連れて人影に輪郭を帯び、姿が浮き彫られていく。
 波を打ったような癖のある髪、整った顔に薄く髭が生えている。皺のないシェフコートを纏った身体は細く、そして高い。
 そして最も特徴的なのは日に焼けたような赤みがかった目・・・。

「スミ・・・」

 私は、震える声で彼の名を呼んだ。

 それは愛しい夫の名前・・。

 胸が・・・胸が締め付けられる。
 歓喜が溢れ出しそうになる。

 しかし、彼は、スミは、抑揚のない表情で眉根を寄せる。
「なぜ、俺の名を知っている」
 歓喜は消え去り、絶望が降り注ぐ。

 覚えていない・・・私のことを?

 私は、必死に彼に呼びかけようとする。
 しかし、声が出ない。
 口が鯉のようにパクパクと動き、空気を漏らすだけ。
「大丈夫か?」
 スミに抑揚のない声で私に声を掛ける。

 やめて・・・。

 そんな声で言わないで・・・。
「・・・大丈夫」
 私は、声を出すことが出来た。
 スミは、肩を竦める。
「どうやって来たのかは知らないが、コーヒーを飲むか?」
 スミの問いかけに何故か私は頷いた。
 そしてカウンターの端に座る。
 彼は、蝶の形のドリッパーに猫のケトルでお湯を丁寧に注ぐ。
「コーヒーまだあ?」
 私は、慎重に言葉を探しながら話す。
 能面のようなスミの顔が僅かに変化する。
「いつからいた?」
「さっきっからいましたよー」
 本当に高校生に戻ったような話し方だ。
 しかし、そうしないとまた声が出なくなりそうで怖かった。
「それよりコーヒーは?」
 言葉を選ぶんだ。
 慎重に。
「ラテにしてね」
 白鳥を模したカップにコーヒーを注ぎ、ミルクを泡立てた泡を乗せて、細い棒で何かを描く。
 そしてそっとカナの前に置く。
 それは女子高生が読まれちゃいけない文字を隠す時のようにグチャグチャに線が引かれていた。
「これってなに?」
「・・・失敗した」
 スミは、悪びれもなく言う。
「失敗したものをお客に出す?」
 違う・・・私はお客じゃないよ・・・スミ。
「すまない」
 そう言ってカップを下げようとする。
「いいよ。別に。今度は可愛く描いてね」
 そう言ってコーヒーを飲む。
 とんでもなく苦かった。
 とても飲めたものではない。
 スミがこんなものを出すなんて・・・。
「苦い」
「コーヒーだからな」
「お砂糖ちょうだい」
「ない」
「口直しに手作りスイーツをちょうだい。マフィンとかマドレーヌとか・・焼き菓子でもいいよ」
「手作り?」
 スミは、首を傾げる。
「だってここはカフェでしょ?それに貴方は・・」
 料理人でしょ?と言おうとした瞬間に声が出なくなる。
 鯉のように口をパクパク動かし、空気だけが漏れる。

 スミに関することだけが言えない!

「どうした?」
 スミは、怪訝な顔をする。
「・・・大丈夫か?」
「・・・うん」
 声が出せた。
 やはりスミに関することだけが言えない。
 どうなってるの?
「お菓子だが・・・すまないが俺は料理が出来ないんだ。すまない」
 私の心に再び絶望が走る。

 料理が出来ない?

 彼が?

 ここにいるのはスミじゃないの?

 私は、喉を押さえて何とか声を出そうとする。

 しかし、空気が漏れるだけ。

 扉の開く音がする。

「ここはカフェですか?」
 小柄な男が入って来てカフェを見回す。
 私は、男を見て驚愕する。
 それは私の知っているあの小柄な男だった。
「そうです」
 スミは、無機質に言うとゆっくりと頭を下げる。
「いらっしゃいませ」

 ああっスミ・・・。
 スミ・・・。
 スミ・・・!

 私が絶対に貴方を戻してみせる!

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