
冷血御君と竜頭尾の花嫁 第一話
"冷血御君は死体を喰らう"
そんな事を言われ出したのはいつの頃からだったろうか?
確か私が五歳くらいの頃、街の外れの孤児院に捨てられた頃だったと思う。
少なくてもずっと昔からのお伽話なんかじゃない。
それなのに街の人たちは語り継がれた逸話のように果物屋さんの軒先で、パン屋さんのレジで、そして酒場の片隅でそんな話しをして盛り上がっていた。
話の内容はこうだ。
夕暮れの落ちる山の向こうに冷血御君は住んでいる。
道に迷った旅人を朽ち果てた屋敷を棲家とし、入ってくるのを今かと今かと待っている。
御君の棲家に近寄ると肌が霜焼け、骨は震え、肺が凍る。
そして御君にその身を触れられると全身が凍りつき、音を立ててむさぼり喰われる。
そんなあまりにも滑稽な、三文小説よりも酷い与太話をおかずにご飯を食べ、酒を飲んだ。
しかし、人は人が思う以上に臆病だ。
そんなくだらない、猫が噛んで吐き捨てるような与太話でも心の奥底のどこかでは信じてしまい、決してそこには近寄ろうとしない。
そんな場所に……今……私は向かっていた。
彼のお嫁さんになるために。
私がそこを訪れたのは街に降った雪が溶け出し、啓蟄を過ぎた春のことだった。
その季節を選んだのは別に冷血御君を意識して温かい季節を選んだのではない。
私に冷血御君のところに嫁ぐよう命じた彼の叔父だと言うオリバ公爵から嫁ぐ時期は自分で決めていいと言われたので、どうせなら大好きなお花が沢山咲くのを見てから……と思っただけだ。
私は、お世話になった孤児院の寮母に挨拶し、顔見知りと呼ばれる人たちに別れを告げてから一人冷血御君の棲家へと足を向けた。
御君の棲家への行き方はとても簡単で険しかった。
魔術師協会の大反対を受けたにも関わらず街に整備された路面電車に座り心地悪く揺られながら最終の駅まで向かい、そこからはひたすらに徒歩だ。
夕暮れの山の向こうなんて比喩されるくらいだから山の中にあるものと勝手に思っていたが、土が剥き出しながらもしっかりと整備された道であることに私は驚く。
それでも長く、急な坂もあればぬかるんだ悪路もあったので孤児院で餞別としてもらった白いローブの裾は汚れ、履き古した薄っぺらい靴の底から地面の硬さが伝わり、痛くなって何度も蹲りそうになる。
特に今はとある理由でローブの中が膨らんでいるだけにさらに歩きづらい。むず痒くてモゾモゾする。
山の中と思ってたからお花が沢山見れると思って期待してたのに咲いてるのは精々、道の端に生える綿になりかかった蒲公英と名前も知らない白く小さな花くらいだった。
それでも足の痛みを和らげるには十分だった。
最後に見るお花……。
よく目に焼き付けておこう。
きっともうお花なんて見ることも出来なくなるはずだから。
それからどれだけ歩いただろう?
真っ青な春の青空が赤く焼け焦げ、日が西へと傾き出した頃、その屋敷は見えた。
夕暮れの落ちる山の向こうに冷血御君は住んでいる。
なるほど。
確かに傾いた夕陽が屋敷の背中に落ちていき、伸びた影が山のように見える。
これは確かに物語上、そう比喩されても仕方ないのかもしれない。
その屋敷は、山を連想される影を生み出すくらい大きく、立派で、そして美しかった。
少なくても話に出てくる朽ちた屋敷では全然ない。
少し汚れているものの綺麗に塗り込まれた白と緑の外壁、ガラスも丁寧に磨かれているのが遠目からでも分かる。鉄格子の柵や目の前に構えた鉄の門扉も朽ちた屋敷のものなのではなく、しっかりと手入れが行き届いている。
そして何よりも驚いたのは……。
「お花……」
鉄格子の隙間から見える広大な中庭。
そこに植えられていたのは彩り鮮やかに咲き乱れる花々だ
パンジー、コスモス、ダリヤ、マリーゴールド、ラナンキュラス、そして……。
「桜……」
黒く、大きな木に絢爛に咲き乱れる白に桃色の筋の入った可憐な花。
この国から遥か東に向かったところにのみ咲くとされ、孤児院に置いてあったボロボロの図鑑でしか見たことがない幻の花……。
そんな桜が庭を埋め尽くすように色鮮やかに咲き乱れている。
私は、あまりの幻想的な美しさに両手を口元に当て、息を飲み込む。
「これが……桜……」
これは何かのご褒美なのか?
それとも哀れな私への最後の餞なのだろうか?
ずっと……ずっと見たいと思っていた桜が目の前でこんなにも……。
私は、目から涙が流れていることにも気づかずにじっと夕暮れに映る桜を見つめた。
ああっもういい。
もう満足だ。
もう何も思い残すことなんてない。
私は、ようやく流れていることに気づいた涙を手の甲で拭う。
ローブの中で心配そうにモゾモゾ動くのを「大丈夫だよ」と言ってぎゅっと抱きしめてから、そっと鉄の門扉を開き、中庭に足を踏み入れる。
甘く、清涼な香りが漂う。
庭を埋め尽くす花々の香りだ。
桜に圧倒されて他の感覚は全て閉じてしまっていたようだ。鼻腔に流れ込んできた花の香りが肺を満たし、身体の中を血液のように流れ込んでくる。
今日はなんていい日なんだろう。
最悪としか思っていなかった人生なのに最後の最後にこんなにも良いことが続くなんて……。
「本当にもう思い残すことなんてないや」
強いて我儘を言うなら最後の最後の最後はこの花々に囲まれて眠りたい。
でも、流石にそこまでは運も続かないだろう。
私は、意を決して屋敷に向かって歩みを進めようとする。
「キュイ」
ウサギが鳴いたらこんな声なのではないか?そんな可愛らしい声が耳に入ってくる。
私は、思わず声の方を見て……青ざめる。
緑色の肌。
肝臓を痛めたような黄色く濁った目。
醜く先の歪んだ耳。
傴僂のように屈んだ背に子どものように小さく、弱々しい身体……。
「ゴブリン……」
私は、自分の顔から血の気が引いていくのが分かる。
醜悪なる隣人。
神の失敗作。
世界を穢すために生まれた者。
幼い頃から刷り込まれるように言われ続けたゴブリンの悪名が脳裏に浮かぶ。
ローブの中が泡立つようにモゾモゾと揺れる。
私は、反射的にローブを必死に押さえる。
ダメ……まだ動いちゃダメ……。
そんなことをしていると中庭の隙間や影から次々とゴブリン達が姿を現し、私を取り囲んでいく。
どうしてこんなに沢山のゴブリンが⁉︎
冷血御君が操っているの⁉︎
まさか本当に……。
そんな事を逡巡しながら私は、ローブを押さえながら腰に差した短剣に手を伸ばす。
しかし……。
ゴブリン達は一向に襲ってくる気配はない。
それどころかキョトンッとした顔をして黄色く濁った目て私を興味深げに見てくる。
それにゴブリンと言う存在ばかり目がいって気付かなかったがかれらはとても子綺麗な格好をしていた。
ハンチングの帽子に襟付きのシャツに縞模様のチョッキ、そして焦茶色の半ズボン、その姿は街を歩く子どものようであり、貴族の屋敷に仕える庭師のようであった。生地も一目で上等なものと分かり、それに比べたら私の羽織る白いローブなんてボロ切れに等しい。
そして何よりもその姿がとても可愛く、私は短剣を握る手を無意識に緩めてしまう。
そこに……。
「こら、お前達!」
甲高い男の子の声が私の耳に飛び込んでくる。
ゴブリン達は一斉に声の方に振り返り、私も思わず向いてしまう。
そこにいたのもゴブリンであった。
しかし、私を取り囲んでいるゴブリンとは違い、背筋は伸び、背も高く、服装も黒いスーツに蝶ネクタイ、膝丈までの黒いスラックスというまさに屋敷の使用人と言った姿だ。
しかし、1番特徴的なのは目。
黄色く濁っているのは同じだが、その目からは他のゴブリンにはない知性が感じられた。
「僕の部下達がご迷惑をおかけしました」
ゴブリンは、深々と頭を下げる。
その会釈はとても綺麗で、洗練された執事のようだ。
「彼らも決して悪気はないんです。ただ、客人が来ると嬉しくなってしまうようで……どうぞお許しください」
そう言ってゴブリンは再び丁寧に頭を下げる。
「いや……そん……大丈夫……」
私は、想像にもなかった彼の動きと丁寧な言葉に狼狽してうまく言葉が紡げなくなる。
しかし、ゴブリンは気にした様子もなく顔を上げると小さく笑う。
その笑みはとても和やかで人間らしく、とても"醜悪なる隣人"と呼ばれる存在には見えなかった。
「御君の花嫁様ですね?」
ゴブリンの発した言葉に私は自分の身が固くなるのを感じ、思わずローブの中のものをぎゅっと抱きしめる。
「はいっオリバー公爵に言われて参りました。不束者ですがよろしくお願いします」
そう言って私は、固く頭を下げる。
「私は、タロスケと申します。御君よりこの屋敷の執事長を仰せつかっております」
執事長!
私は、驚きのあまりさらに狼狽してしまう。
それに気づいたのか、タロスケと名乗ったゴブリンの執事長は恥ずかしそうに頭を掻く。
「見た目が子どもっぽいので驚かれるのも無理はないと思いますが……」
違う!
驚いたのそこじゃない!
「これでも我が種としては成人を迎えているのでどうぞご安心を」
そう言ってタロスケは、軽やかに右手を屋敷に向かって伸ばす。
「さあ、御君がお待ちです」
御君。
その言葉に私の心と身体は再び固くなる。
「こ……ここに御君が……?」
私は、極力動揺を隠しながら言葉を出す、
「はいっ我が主。冷血御君と貴方がたが呼ぶ御仁はここにいらっしゃいます」
タロスケは、柔らかく笑みを浮かべる。
「さあ、参りましょう」
そう言ってタロスケは屋敷に向かって歩き出す。
小さなゴブリン達はつぶらな黄色く濁った目で私を見る。
私は、小さく唾を飲み込み、ローブの中にあるものをぎゅっと抱きしめて彼の後を追いかけた。
"冷血御君は朽ち果てた屋敷に住んでいる"
街の噂ではそんな風に流れて恐れられているのに屋敷の中はとても整然として品が良く、そして豪奢であった。
綺麗に磨かれた窓、白い壁、散り一つ落ちていない棚や素人の私から見ても値打ち物と分かる調度品や絵画、そしてもはや素足に近い薄っぺらな私の靴底に心地よく伝わってくる寝転がりたくなるくらい柔らかい、廊下全体に敷き詰められた赤い絨毯……。
孤児院で読んだボロボロの童話集に出てくる王子様のお城のような光景に私は目を奪われ、行儀悪くキョロキョロと見回してしまう。
そんな挙動不審な私の様子に道案内にと前を歩いていたタロスケが気づいて声を掛けてくる。
「どうかされましたか……えーっと」
そこで私は自分が名前を名乗っていなかったことに気付く。
「アーデです。名乗るのが遅くなって申し訳ありません」
私は、小さく頭を下げる。
ゴブリンと会話して頭を下げるなんて不思議な感覚だが目の前の知性ある彼を見ているとどうしてもゴブリンには見えず、年下の男の子に見えてしまう。
「アーデ様ですか」
タロスケは、嬉しそうに笑う。
「お姿だけでなく、お名前もとても綺麗ですね」
タロスケから飛び出した信じられない歯の浮くような言葉に私は頬が爆発するように赤くなるのを感じた。
「綺麗⁉︎この私がですか⁉︎」
私は、思わず声を上げてしまう。
タロスケは、それに反して和かに微笑んで「はいっ」と頷く。
「とてもお綺麗だと思います」
このゴブリンは目がおかしいのではないのだろうか?
それともゴブリン視点で見ると私の外見は美しい部類に入るのだろうか?
私の外見なんてとても褒められたものではない。
昔は母親譲りの赤毛は自慢だったがあんな事があってからは世界で一番嫌いなものになってしまった。瑠璃色と称される大きな目だって昔は好きだったけど母親を思い出して今は鏡を見る度に嫌悪する。病的な白い肌も、痩せっぽちのまま丸みを帯びてきた身体も。
そして……そして……。
私は、ローブの中にいるものをぎゅっと握りしめる。
「私は……綺麗なんかじゃありません」
私は、ボソリっと呟く。
タロスケは、小首を傾げるもののそれ以上は何も言わず、前を向いて歩き出す。
私も無言で彼の後に着いていく。
数分後、彼は大きな扉の前で足を止める。
「こちらです」
タロスケは、扉に背を向けて私に顔を向ける。
「こちらの部屋で御君はお待ちです」
私は、扉をじっと見つめる。
立派ではあるがとても質素で黒塗りの木の扉。
押せば幼児でも簡単に開けるような扉から発せられるいいしれぬ威圧感にこめかみから汗が一筋流れる。
「ここから先はお一人でお入りください」
タロスケは、一歩扉から横に下がり、右手を扉に向ける。
「貴方は、入らないのですか?」
自分でもなんでそんな事をタロスケに聞いたのか分からない。彼が一緒に入ろうと入らまいと私がこれからやる事になんら変わらない。
それでも口にしてしまったのはこの中に一人で入る事が不安で仕方がないからだ。
「僕は、夕食の支度がありますので……」
タロスケは、丁寧に頭を下げて返答する。
私は、心の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
夕食……それってまさか……。
「もし、戻ってこられたら厨にお越しください。温かいココアを淹れて差し上げますので」
ココア?
ココアってなに?
私は、聞き慣れない言葉と、そして彼が最初に口にした事を胸中で反芻する。
"もし、戻ってこられたら"
つまり、彼は私が戻ってこないと分かっているのだ。
その証拠に彼は私のことを花嫁と理解し、執事長と名乗ったにも関わらず、"どうぞお見知りおきを"とは言わなかった。
御君の妻となれば必然的に仕える相手に対して……。
……そうか……。
やっぱり私は今日死ぬんだ。
私は、胸中で呟き、自虐的に笑う。
だから"厨にお越しください"なんて皮肉たっぷりに言うのだ……。
分かっていたことなのに。
その為に私は今日来たと言うのに……。
私は、涙が溢れそうになるのを堪え、ローブの中のものをぎゅっと抱きしめながらタロスケに「分かりました」と告げる。
「道案内ありがとうございました」
私は、タロスケに深々と頭を下げる。
「ここからは一人で参ります」
「はいっ」
タロスケも小さく頭を下げる。
「ココア……ご用意しておきますね」
そう言ってタロスケは小さな笑みを浮かべた。
ああっ本当にいじわるで皮肉だなあ。
私は、自虐的に小さく口の端を釣り上げる。
彼は、それを微笑と捉えたのか、嬉しそうにもう一度頭を下げてゆっくりと去っていく。
私は、扉に目を向ける。
小さく息を吸って、吐いて、ローブの中のものをぎゅっと抱きしめる。
「行くよ」
私は、小さく呟き、扉をノックしようとして、思わず手を退ける。
冷たい。
まるで氷に直に触ったように冷え込んでいる。
私の脳裏に街に伝わる逸話の一説が蘇る。
"御君の棲家に近寄ると肌が霜焼け、骨は震え、肺が凍る"
私は、身がすくむのを感じた。
ローブの中が騒めく。
冷血御君と言う言葉が頭を駆け巡る。
しかし、私は意を決して扉を二回、ノックする。
「はいっ」
冷たい扉の感触と一緒に返ってきたのは拍子抜けするくらい軽い声だった。
てっきり重低音の響く、恐怖の誘う声が返ってくると思った私は告げるべき言葉を忘れてしまう。
「タロスケかい?」
「いえっ違います」
私は、反射的に言葉を返す。
「オリバ公爵の紹介により参りましたアーデと申します。御君にお会いしたく参りました」
私が名乗ると一瞬の沈黙が訪れる。
私は、刺すような緊張に唾を飲み込む。
「どうぞ……お入りください」
「は……はいっ」
私は、扉越しに頭を下げると、痛くなるくらい冷たくなった取手を握り、ゆっくりと開く。
冷気が暴力となって私の身体を叩きつける。
扉で封印されていた部屋の中に充満していた冷気が爆発して突風となって扉から溢れ出る。
木製の扉が凍り、白い壁が霜に覆われ、赤い絨毯に硬い霜柱が走る。
私の薄い白のローブではとても冷気を防ぎきれず、表面が張り付き、身体中が焼かれるように凍てつく。
私は、寒さと恐怖で歯が鳴るのを抑えなれなかった。
逃げ出したい。
そんな感情が奥底から溢れ出るが、唾と恐怖と一緒に飲み込む。
逃げてどうする?
逃げてどこに行く?
どこに逃げたって私の運命は変わらない。
ここが私の最後の場所なのだ。
冷気が静まる。
霧が晴れるようにゆっくりと霧散し、部屋の景色を映し出す。
部屋の中は白く凍てついていた。
家具も、調度品も、廊下と同じ色をしていたはずの絨毯も全てが白く、固く染まっている。
そんな小さく凍てついた銀世界の中で彼は一人用のソファに腰をかけてこちらを見ていた。
彼を見た瞬間、私は思わず目を丸くし、力が抜けそうになるのを感じた。
それだけ彼の姿は私が想像していたものと違っていた。
年は十代の半ば……少なくても私と同じ年くらいであろう、癖の強い艶のある黒髪、金糸で刺繍された大きな鳥の描かれた着物と呼ばれる衣装を纏った優男と呼んでも差し支えない細い身体、身長も私より少し高い程度だろう。
幼さを残しつつも凛々しく整った顔には丸淵の眼鏡がかけられ、その奥には黒曜石のような吸い込まれるような黒い瞳が見えていた。
その目は……とても優しく見えた。
私の心臓が大きく高鳴る。
彼が……本当に?
しかし、その疑問と迷いは一瞬で打ち破られる。
彼は、眼鏡の奥の黒曜石のような目私をじっと見て……優しく微笑んだ。
「いらっしゃい」
彼は、ゆっくりと凍ったソファから立ち上がる。
「僕が冷血御君です」