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平坂のカフェ 最終話 四季は太陽(2)

 能面。
 ぶっきらぼう。
 それが生徒たちが俺につけた渾名だ。
 的を得ている。
 高校で教鞭を取り、美術部の顧問をしている時の俺はまさにそんな感じだろう。
 美大を現役で卒業したにも関わらず画家として大成出来ず、拗ねに拗ねきっていた私の心境をまさに顔が表していたのだろう。
 その証拠に生徒も部員達も、教師達ですら俺を恐れて必要以上の声を掛けてこない。
 まるでうるしに被れて呼吸困難にでも陥るかのように。
 しかし、今の俺はどんな顔をしているのだろう。
 自分の頬が濡れているのが分かる。
 目の前に広がるこの世の美を凝縮したような光景に琴線を震わされている。

 今日は教え子である彼女の結婚式だ。

 彼女の夫となる男性のビストロの開店記念と合わせての結婚式なのでとてもこじんまりとしているし、テーブルに所狭しと並べられている料理も全て夫の手作りだ。参加者も両家の家族と私も良く知る顔ぶれの彼女の友人達、彼女の仕事仲間、そして私となる。

 店の中央には4枚の絵が飾られていた。

 絢爛に桃色の花を纏い、優雅に散らす春の桜。
 白い月に照らされた女人のような艶やかさを持つ夏の桜、
 夕日に焼かれながらも雄々しく立つ秋の桜。
 そして雪に埋もれながらも脈々と生命を漲らせる冬の桜。
 そしてその4枚の絵に囲まれるように仲睦まじく笑い合い、愛し合う2人。
 これだけで一つの作品が生まれようとしている。
 俺は、この光景から目を逸らすことが出来なかった。

 彼女が初めて美術室に入ってきた時のことは今でも良く覚えている。
「美術部って今でも入部すること出来ますか?」
 彼女は、イメージと違って非常に辿々しくたどたど、怯えた様子で俺に話しかけてきた。
 イメージと違うと言ったのは、当時の彼女に対し、俺を含めた教諭、そして生徒達の印象が非常にマイナスなものだったからだ。

 クラスの誰とも話さない。
 授業はほとんどサボりがち。
 表情を一つも変えず、無関心で冷酷な雰囲気。
 そして留年。

 問題こそ起こしたことはないが誰もが彼女と触れ合おうとせず、声も掛けなかった。口にこそ出さないが教員達の中には早く退学してくれないか?と願う者もいたと思う。
実際、彼女が入ってきた瞬間、部員達に緊張と恐怖が走ったのを私は見逃さなかった。
 俺が入ってきた時ですらこんなに緊張することはないであろう。その様子を見て、いざとなれば部員達を守らなければとさえ思った。
 しかし、私の目の前で上目遣いに機嫌を伺う兎のように私の返答を伺う彼女からはそんな様子はまるで見えなかった。
 どこにでもいる普通の可愛らしい女の子に見えた。
 俺は、何も言わずに彼女を未使用のキャンパスの前に座らせ、「好きに描いてみなさい」と言った。
 彼女は、びくっとしながらもいう通りにキャンパスの前に座り、自前の色鉛筆を取り出した。
 絵の具なら好きに使っていいと言ったが彼女は「こっちの方が慣れてるので」と言って断られる。
 そして彼女は、色鉛筆を使い、キャンパスに絵を書き始めた。
 見るからに素人の手つきだと分かる動きだった。
 基本も何もなっていない。
 ただの子どものお絵かきの延長・・・その程度にしか思えないものだった。

 しかし・・・。

 彼女が描き上げたのは空だった。

 真っ青な汚れのないどこまでも続く純粋で深遠の青空。
 涙が出るほどの清らかな青空。

 それは心だ。

 彼女の心を映し出したもの。

 技術を磨くことにだけ囚われて絵を描いてきた俺には決して描くことの出来ない心の写し身がそこにはあった。
「・・・明日から来なさい」
 俺は、自分でも驚くほど小さな声でぼそりっとそう告げた。

 それからの彼女の成長は著しかった。
 俺は、ひたすらに空を描く彼女に一つの課題を与えた。
「足元には何がある?」
 彼女は、何を言われているか分からない様子だった。
 やはり彼女は、空しか見ていなかった。
 自分の心を入れ込むことの出来る空虚なポケットに心を映していたのだ。
 なら、その心を違うものに入れたらどうなるのだろう?
 空という文字通りのからではなく、大地にある生命に満ち溢れたモノに。
 結果は予想を超えるモノだった。
 彼女は、最初は言葉通りに足元に落ちていた小石をスケッチした。次に草を、そして最後に木を描いた。
 彼女は何度も何度も描き直していた。
 側から見ればそれは素晴らしい模写であった。
 部員の誰もが文句を付けないような。
 しかし、彼女は、描いて描いてひたすらに描いて。
 ついに1枚の木の絵を完成させた。
 月明かりの中、互いに寄り添う2本の木を。
 そこには彼女の内側にある力強い生命力が注がれ、満ち溢れたモノだった。
 その絵を見た俺は、彼女にコンテストのチラシを渡した。
 俺が高校生の時に見事に落選したコンテストのものだ。
「優勝は無理だと思うけどな」
 確かに優勝は無理だろう。
 しかし、ひょっとしたら・・・。
 結果は優勝でこそなかったが奨励賞という見事なモノだった。
 彼女は、表情こそ乏しいものの頬が上気し、左目を丸くしていた。
 彼女の中に熱いものが生まれた瞬間であったように思う。

 そして高校3年生の時、彼女から絵の道に進むと話しをされた時、やはりな、と思った。
 彼女は、決して絵の卓越した才能がある訳ではない。
 技術だけならもっと優れたものがたくさんいる。
 しかし、絵は彼女を選ぶだろう。
 彼女の歩む道は、絵と共にある。
 俺が決して歩むことのできなかった絵と共に歩む道が。
 俺は、彼女に夢を託し、送り出した。

 そして5年後、彼女は見事に自分の絵の道を進んでいた。
"樹木アーティスト"と言う位置を確立し、大勢の人に認められていた。
 俺は、彼女の個展に足を運び、1枚の絵を買った。
 花もつけていない幹だけの桜の木。
 それはまさに彼女の作品の中で唯一完成していないもの、つまりこれからさらに成長していく彼女そのものであった。
 それからしばらくして彼女が結婚したことを聞いた。
 相手は同じ高校の同級生。
 名前を聞いても分からなかった。
 しかし、分からなくて良かったと思う。
 その当時にあっていたら思わず殴り飛ばしてしまっていただろう。
 それから1ヶ月後、彼女とその夫が事件に巻き込まれたことをニュースで知る。
"鳥頭"殺戮事件に。

 桜の木の絵に変化が現れたのはそれから1年後のことだった。
 幹だけしかなかったはずの桜の木に花がついたのだ。
 それも絢爛と呼ぶに相応しい桜の花々を。
 俺は、呆然と変化した桜の木の絵を見た。
 桜の木に色づいた花弁が風に舞うように舞い上がり、渦を巻いて舞い上がる。
 俺は、思わず手を伸ばすが、花びらが掌に落ちてくることはなかった。
 しばらくして桜の花は散り、元の幹だけの木に戻った。
 一体、何だったのか?
 その答えが出ないままに数日後、2回目の変化が起きる。
 匂い立つようなら深緑の葉を茂らせた桜の木の後ろに大きな満月が現れた。
 心が洗われるような神々しくも妖しい光を放つ満月。
 俺は、その美しさに目を反らすことが出来なかった。
 そしてしばらくして月は消えた。
 深緑の葉も生えていた痕跡すらなく消えた。

 それからまた数日後、今度は胸が鋭い刃で抉られるような痛々しい夕日が桜の木を焼いた。
 夕日は、まるで桜の木を攻め立てるようにその強い光を打ちつけた。
 その絵から感じたのは強い絶望だった。
 俺は、呼吸するのすらままならなくなりながらもその絵から目を反らすことが出来なかった。
 いつも間にか夕日は消え去り、元の桜の木に戻る。
 今更ながらに何が起きているというのだ。
 ひょっとして彼女に何かが起きているのか?
 俺は、元部員達に連絡し、彼女のことを聞いた。しかし、あの事件以降、誰も会っていないとのことだった。
 それから数日後、4度変化が訪れる。
 桜の木が白くなった。正確には深い雪にその身を包んだのだ。
 あらゆる音を飲み込むような厚く、冷たい雪に。
 その絵から感じるのは様々な感情。
 絶望、悲しみ、怒り、そして・・・痛くなるほどの愛。
 それは絵を通して感じられる彼女の感情なのだ、と思っていた。
 しかし、違った。
 絵から感じられたのは1人だけの感情ではなかった。
 この感情は2人分。
 お互い想い、思いやる、求め、求め合う2人の感情だ。

「帰ってくるんだ」
 私は、思わず呟く。
 それが誰に向けて放ったものなのか自分でも分からなかった。
 そして雪は消える。
 そして桜の木も消えた。
 あるのは何も描かれていないキャンパスのみだった。
 しかし、何故か俺は驚かなかった。

 ああっ2人は救われたのだ。

 何故かそう思ってしまった。

 それから数日後、元部員達から彼女の夫が目を覚ましたことを聞いた。

 そして今、俺はここにある。
 幸せそうに笑い、寄り添いあう2人を目にしている。
 それはまさに彼女が初めて描いたあの寄り添いあう2つの木そのものだった。

 おめでとう。

 俺は心から2人を祝福した。

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